三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

呂布(りょふ) 字:奉先(?~198)その2

さて、今回は呂布の紹介、2回目じゃな。今回は呂布がなぜ曹操に勝てなかったのか。その辺りを追いかけて行ってみようかのう。

 

さて、呂布の紹介2回目じゃな。

どうも、張郃だ。こうやって見ると呂布も曹丞相には負けっぱなしだな。 

最初一回は勝てていますが、それ以降は良いところがないですね。何がそんなに大きく変わったのでしょうか?

そうじゃな、何度か書いているがどんな武将にも得意とする戦い方、苦手とする戦い方というものがあるじゃろう。例えば呉軍は水軍が得意、とかじゃな。

呂布は騎射を良くするんでしたよね。

うむ、つまりは騎馬中心の戦術じゃな。それでは曹操との戦いを中心に見ていくとしようかのう。。

人物紹介

濮陽の戦い1

さて、曹操との戦い、第1ラウンドじゃな。

呂布兗州のほとんどを支配下においたが、鄄城は攻撃しても落とせなかったんじゃ。そして呂布は西に向かい、濮陽に駐屯するんじゃ。

武帝紀』によると、この状況を見て曹操は自信満々に、

呂布はわずかの間に一州を手に入れながら、東平を根拠とし、亢父・泰山の街道を断ち切り、要害を利用して我が軍を迎撃することを成しえずに、何と濮陽に駐屯しおった。わしには彼の無能が分かる。」

と言ってのけたんじゃ。

凄い自信満々に言ってるんですね。あ、あれ、でもこの時の戦いって確か・・・?

そうじゃ、この時の曹操軍は呂布軍にけちょんけちょんに蹴散らされておるんじゃよ。それではその戦いの様子を見てみようかのう。

曹操は軍を進めて呂布と戦うんじゃが、呂布は騎兵を繰り出し、まずは騎兵によって青州兵に攻め込んだんじゃ。青州兵は崩れ、本陣も大混乱に陥るんじゃ。

曹操は火を突き抜けて馳せ出たが、馬から落ち、左の手のひらに火傷を負うんじゃ。司馬の楼異が曹操を助け起こして馬に乗せ、引き退くことができた、とあるんじゃ。

言い訳のしようがない、大敗北であったな。 

そうじゃな、じゃがこれにより呂布軍の騎馬隊の強度を知った曹操はその対策にいそしむんじゃ。

濮陽の戦い2

さて、一戦目は呂布に大敗した曹操じゃが、ただでは済まさないのが曹操の凄いところじゃな。

この時曹操陣営は曹操がいなかったこともあって、皆恐慌を来していたんじゃ。

そこで曹操は軍営に到着すると無理を押して軍をねぎらい、軍中に命令して攻撃用の兵器を作るように督促し、前進して再び攻撃を仕掛けるんじゃ。

恐らく、騎馬隊の強度を把握したことで、突破を許さない戦い方を行ったのであろう。

具体的な戦術は書かれておらんが、基本は麹義公孫瓚相手にやったのと同じ戦い方を行ったと思うぞい。

麹義の戦い方に興味のある方は見てみると良いぞい。

騎馬隊と対峙する場合、如何に騎馬の突撃を食い止めることができるかが肝じゃな。麹義のような戦い方もあるが、もう一つ「拒馬槍」と言う兵器があるんじゃ。これは『英雄たちの装備、武器、戦略 三国志武器辞典』と言う書物があるんじゃが、そこに載っておる兵器じゃ。

構造は単純で柵となる丸太に槍を何本も取り付けて置き、敵が突っ込んできたらそれで槍衾にしてしまおう、と言うものじゃ。

この書物は古代の兵器から演義の時代1100年頃の兵器まで紹介しておるが、この「拒馬槍」は三国志の時代にも使われている描写が伺えるんじゃ。『魏書』によると曹操馬超韓遂と関中で戦っておる最中、韓遂と会談しようとした時に、諸将は「公は敵と言葉を交わされるのですから、軽はずみなことをなさるべきではありません。【馬止めの木柵】を作って防御をしておいた方がよろしいでしょう。」と進言するんじゃ。

ここで言及されている、馬止めの木柵と言うのが拒馬槍に該当すると思うんじゃよ。

確かに拒馬槍があれば柵としての役割で馬の突進を防ぐこともできるし、槍で相手にダメージを与えることもできる、攻防一体の兵器と言う訳じゃな。

麹義殿のような戦いは麹義殿が長年調練した精鋭兵だからこそできた、と言う側面もあるからな。いきなり元農民の青州兵に同じことをやれと言うのも無理な話。そこを兵器で補うと言うのは曹操殿らしいではないか。

東緡の戦い

さて、次は東緡にて呂布陳宮と共に曹操に攻撃を仕掛けてきた時の戦いじゃな。『魏書』によると、この時曹操の軍は麦を奪いに出かけており、屯営に残っている兵は千人に足らず、堅固ではなかったんじゃ。呂布軍は1万を超える兵を率いており、普通に戦ってはとても勝ち目がない。

そこで曹操は婦女子に命じてひめがき(低い垣根)を守らせ、全兵力を挙げて防いだんじゃ。

屯営の西には大きな堤があり、その南にはうっそうとした樹木が茂っていたんじゃ。呂布はこの樹木に伏兵があるのではないか、と疑念を抱き

曹操はたくらみが多い、伏兵の中に入ってはならぬぞ。」

と言い合い、軍を率いてその南10余里のところに駐屯したんじゃ。

翌日呂布は侵攻してきたので、曹操は堤の方に兵を隠して置き、堤の外に半数の兵士を出したんじゃ。呂布がこれを見てずんずん進んできたのでタイミングを見計らって、伏兵が全員堤の上に登り、歩兵騎兵が一斉に進撃して大いに敵を撃ち破った、とあるんじゃ。

相手の意識を別のところに仕向けさせておき、意識外のところから攻撃をかける。目の前にいるのに、惚けなくやられることもあるのが怖いところだな。そして相手の心理を読み取れる人物でなければこのような戦い方はなかなかできん話だ。

呂布は己の得意とする戦いができれば間違いなく強かったと思うんじゃよ。じゃが曹操はそれをさせなかった。己の戦い方に固執せず、相手に合わせて柔軟に戦い方を変化させる、この辺りが曹操を最強たらしめた所以ではなかろうかのう。

と言ったところで今回はここまでじゃな。次は他の戦いや、呂布のちょっと意外なエピソードなどを見ていくとしようかのう。

 

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