さて、今回紹介する人物は呂布じゃな。字は奉先、生年は不明じゃが没年は198年とはっきりしておる。よく最強の代名詞として扱われる呂布じゃが、彼は本当に強かったのかのう。
さて、今回紹介するのは呂布じゃな。後漢最強の武将として演義でも取り上げられておる人物じゃ。
一時袁紹殿の下に身を寄せていた時があったからな。武勇はすさまじかったが尊大で袁紹殿も嫌っておったな。
やはり、強かったのでしょうか。演義では最強扱いですが、正史を知ると本当はどうなんだろう、と思ってしまいますね。
そうじゃな、それでは今日は久々に、呂布の戦績を見ていくとしようかのう。
分かりました、よろしくお願いします。
人物紹介
軍事面の実績
対孫堅 △ (陽人)
対郭汜 〇 (長安・一騎打ち)
対李傕・郭汜 × (長安)
対張燕 〇 (常山)
対曹操 〇 (濮陽1)
対曹操 △ (濮陽2)
対李進 × (乗氏)
対曹操 × (定陶)
対曹操 × (鉅野)
対曹操 × (東緡(とうびん))
対張飛 〇 (下邳)
対郝萌 × (下邳)
対紀霊 〇 (小沛・武技にて退却)
対張勲 〇 (下邳)
対袁術 〇 (淮南)
対臧覇 × (莒)
対劉備 〇 (沛)
対夏侯惇 〇 (沛)
対曹操 × (下邳1)
対曹操 × (下邳2)
21戦 10勝9敗2分
およそ以上になるかのう。トータルの勝率は5割をちょっと割ったぐらいじゃな。結構敗北が多いが、実はその多くが曹操だったりするんじゃな。
他の劉備、袁術などに対してはほぼ勝ち切っておるから、弱くはないはずじゃな。何故曹操にはこんなに負けておるのかのう。まずは彼の軍事内容を見ていくとしようかのう。
主な軍事内容
郭汜との一騎打ち
『呂布伝』注の『英雄記』によると、郭汜が城の北にいた際、呂布は城門を開き、軍勢を率いて郭汜に接近し以下のように言うんじゃ。
「しばらく軍勢を遠ざけよ。一対一で勝負を付けよう。」どちらも腕に自信のある将同志の戦いじゃ。
郭汜と呂布はそこで単独で対決し、呂布が郭汜めがけて矛を突き刺したんじゃ。これで恐らく郭汜は負傷し、郭汜の背後に退いていた騎兵が進み寄って郭汜を助け、郭汜と呂布は共に引き上げたんじゃ。
張燕率いる黒山賊との戦い
呂布が袁紹の下にいた時じゃ。呂布は袁紹と共に張燕軍を攻撃したんじゃが、この時張燕は一万余の精鋭兵と数千の騎兵がおったんじゃ。ざっと1万5千から2万ぐらいの兵力じゃな。
呂布は赤兎と言う名の馬に乗り、いつでも側近の成廉や魏越らと一緒に、敵陣に何度も突撃を繰り返して、ついに張燕の軍を撃ち破ったんじゃ。
呂布の戦いぶりが良く分かる戦だな。
臧覇との争い
さて、時代は呂布が徐州を支配しようとしておった時じゃ。『英雄記』によると当時、瑯邪の相として蕭建と言う人物がおったんじゃが、彼は当初呂布とよしみを通じようとしなかったんじゃ。
呂布は書簡を送って彼を説得し、それに蕭建も心を動かされ、良馬五頭を献上したんじゃよ。その後蕭建は臧覇の襲撃を食らい物資を奪われるんじゃ。
呂布はこれを聞くと、自ら臧覇を攻めるんじゃ。しかし臧覇が守る城を呂布は攻めきれずに退却するんじゃな。その後臧覇は呂布と再び和睦するんじゃよ。
さて、とりあえず今回はここまでじゃな。次もまたよろしく頼むぞい。
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