さて、今回紹介する人物は董卓じゃな。字は仲穎、生年は不明じゃが没年は192年じゃな。後漢を破壊した、と言われ後世の評判も散々な董卓じゃが、実像は如何じゃったのかのう。
さて、今回紹介するのは董卓じゃな。それよりも・・・今日は何とか勝てたのう、日本代表。
どうも、張郃だ。む、蹴球の話か。
蹴球、ああ、サッカーのことですね。そう言えば日本代表の試合在りましたね、もう二敗していて後がないとか。
まあ、今日勝てたことで、少し余裕はできたからのう。後は取りこぼさないこととアウェーオージー戦を何とか乗り切れれば、何とかなるじゃろう。
まあ蹴球に関してはその内また語れば良いだろう、それよりも今は董卓の話だろう。
董卓については演義でも相当酷い人物として描かれていますよね。史実も同じなのでしょうか。
これに関してはYesともNoとも言えるのう。それではまず、今日は董卓の戦績から見ていくとしようかのう。
分かりました、よろしくお願いします。
人物紹介
軍事面の実績
対胡族 〇 (涼州)
対匈奴 〇 (幷州)
対羌族 〇 (幷州・百戦以上)
対黄巾賊 × (長安)
対韓遂 〇 (隴西)
対羌族 〇 (望垣キョウ)
対段珪 〇 (北邙)
対何苗 〇 (洛陽)
対王匡 〇 (河陽津)
9戦 8勝1敗
およそ以上になるかのう。意外と記録としてはっきりしておる戦闘数は少ないのう。じゃが、羌族との戦いを百戦しておる、と言うのが本当だとすると、108戦して107勝と言うとてつもない記録になるんじゃよ。
しかも実戦内容を見ると、結構頭を使っておることが伺える。ちとその辺りを見ていくとしようかのう。
主な軍事内容
望垣キョウの戦い
『董卓伝』を見ると、韓遂を防いだ時に、望垣キョウの北で、数万の羌族に包囲され、糧食が欠乏するんじゃよ。
そこで董卓は魚を捕えるふりをして帰途につき、その帰り道の渡しの箇所をせき止めて池を作り、数十里に渡って水を湛えさせ、堰の下を通ってひっそりと軍隊を通させてから、堰をきったんじゃ。羌族がその情報を得て追いかけてきた頃には河は既に深くなっており、渡ることができなかったんじゃ。
この時は六個師団が隴西に向かっていたが、五個師団まで敗北しており、唯一董卓だけが軍勢を損なうことなく帰還することができたんじゃよ。
指揮官として策略もこなす、普通に優秀な司令官だな。
洛陽での兵力増強
董卓が洛陽に入城した時のことじゃ。董卓は非常に良いタイミングで洛陽に入ったが、その為兵力を整えることができんかったんじゃ。洛陽に入城した時の董卓の兵力はたったの三千しかおらんかった。
そこで董卓は洛陽におった中央軍を吸収しようと画策する。丁度何進の弟の何苗が兄に対して非協力的だった、と言うことで元何進配下呉匡の恨みを買っておった。『英雄記』によると、董卓は恐らく呉匡をけしかけ、何苗を殺害させるんじゃ。董卓が関わっておると思える理由として、この時は董旻も呉匡と共に何苗を攻めているからじゃな。
これにより、董卓は何進・何苗の軍勢を吸収し、勢力を大きく膨れ上がらせることに成功したんじゃよ。
さらに董卓は呂布をそそのかし、執金吾の丁原も殺害し、呂布と共に丁原の軍を吸収するんじゃよ。
こうやって見ると、董卓と言う人物がかなりの策士であることが伺えるな。
更に董卓は4~5日おきに夜になると4つの門から軍兵を外へ出し、あくる日軍旗や陣太鼓を連ねて入城させ、「西方の軍隊、またも洛陽城中に到着しました。」と宣伝させるんじゃ。
王匡との争い
河内太守の王匡は、泰山郡の軍隊を河陽津に駐屯させて、董卓を襲撃しようと図ったんじゃ。
董卓は兵を派遣して平陰から川を渡るようにみせかけ、ひそかに精鋭の軍を派遣して小平から北に渡り、その背後に回って襲撃させ、河陽津の北でこれを大いに撃破し、王匡の軍はほぼ壊滅してしまうんじゃよ。
先の二つのエピソードもそうじゃが、董卓も皇甫嵩に負けず劣らず策を駆使し相手の裏を突いて勝利をもぎ取っておる。かなりの武将であるのう。さて、とりあえず今回はここまでじゃな。次もまたよろしく頼むぞい。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい