さて、今回は傅嘏の末子である傅祇の紹介じゃな。字は子荘、生没年は不明じゃ。彼も記録は少ないながらもその博学さから博士として、後に晋の司空にまで登った人物なんじゃよ。
さて、今回は傅祇の紹介じゃな。彼は傅嘏の末子で、傅嘏の跡を継いだ人物なんじゃよ。
どうも、張郃だ。晋の時代に三公にまで登っているということは、彼も父同様優秀であったと言うことだな。
中には役職だけで実績が見えてこない方もいらっしゃいますが、傅祇の場合は如何でしょう。
確かに記録は少ないようだが、いくつか興味深い内容も記録されている。その辺りは後程語られるであろう。
そうじゃな、それでは早速能力評価から行くとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀
魏志の記録を見ると、軍事、統率、知謀面で突出した何かの実績を残した、と言う記録はないことから、この部分においては平均的な評価としたんじゃよ。
まあ父もそうであったが、元々文治側の人物であろうから、この辺りは妥当な評価であろうな。
政治
政治に関しては司空になった以外にちょっとしたエピソードがあるんじゃ。実は何度か読んでもきちんと理解できたわけでなく、またこの部分に関する考察がどこかのサイトで語られているわけでもないので、間違っているかもしれんが、次のような話なんじゃよ。
魯の大臣が次のように上奏するんじゃ。
「漢は孔子廟を立て、褒成侯(孔子の子孫の孔均)が季節ごとに御霊を祭り、太学で儀礼がされるときは必ず先師を祭り、王室が穀物を支給して春と秋に祭祀を行っておりました。
今では宗聖侯(さらに子孫の孔羨)が後継ぎとなっていますが、天子が祭祀を命ずると言う礼はいまだにございません。
よろしく犠牲(いけにえ)を支給し、首長に祭りを執り行わせ、高貴なる神としてあがめられますように。」
漢と同じように王室が穀物などを支給して、孔羨が祭祀を執り行えるように支援すべき、と言うことですね。
そうじゃ、そしてこれに関する議論を三公府にて行わせたんじゃが、この時に傅祇は次のように言うんじゃよ。
「『春秋』によって孔子の言葉は後世に伝えられ、祭祀の法典として確立されている以上、孔子自身が(祭祀の対象として?この辺りよくわからない)存在していることになります。
宗聖侯はまさに絶えたる家を継続し、盛んなる徳を明らかにする役割を持っています。打ち立てられた言葉を顕彰し、明らかなる徳義を尊崇する点では魯の大臣が上奏したごとくなさるべきかと存じます。」
ふむ、傅祇は魯の大臣の意見に賛成したと・・・だが当時司空であった崔林が反対した、と言うことだな。
そうじゃな。崔林は物事を簡潔にまとめようとする性質があったようで、孔子以外、周公以前の三皇までの聖人の言葉も礼教には載っているが、彼らの祭祀を執り行っていないのだから、これ以上祭祀する必要はありません、と発言するんじゃ。
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簡単解説
結局祭祀を執り行うかどうかはわからないですね。
当時の立場(傅祇は博士、崔林は司空)を考えると採用されたのは崔林の意見であろうが、これには裴松之が嚙みついているな。そもそも孔子がいたからこそ、先人の聖王たちの言葉が風化せずに残ったのに、そのことを無視して軽く扱うとはけしからん、と怒っている。まあ何時ものことだな。
こう言うのは張郃さんとしてはどう思われますか?
祖先を祀るのは大事であると思うし、それが孔子殿ほどの人物であれば、国家が支援しても良いとは思うがな。良きにつけ悪しきにつけ、あの方が残した影響力は絶大なものがあるからな。
個人的にこう言うのは損得勘定などとは埒外の話とワシも思いますのう。ある意味伝統行事のようなもんではなかろうか。とは言え、どちらかが正しいと言うのはまた違うようにも思うんじゃ。何度もこの辺りの文を読んでいたら頭がぐるぐる回ってきたので、今回はここまでと言うことにさせてくだされ。
あまり考えすぎないことだな。それでは自分も帰るとしよう。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。