三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

傅嘏(ふか) 字:蘭石(209~255)その3

さて、今回は傅嘏について彼の洞察力を示す進言等について、載せていくようにしようかのう。

 

さて、今回は傅嘏の前回からの続きじゃな。

どうも、張郃だ。今回は前回以外の逸話と言うことだな 

結構ボリュームがありそうですかね。

そうじゃな。彼の進言を一々全文挙げると膨大な量になるので、かいつまんだ形で載せていくとしようかのう

人物紹介

主なエピソード

劉劭の勤務評定について

劉劭と言う人物が官吏の勤務評定の制度を作り、審議されるんじゃが、傅嘏はこれを過去の評定を参考にしているが、現代の時代には合っていない。しかも根本の大綱がぴんと張られていない(国家の政道がきちんと定まっていない)状態で、末端の規定を制定するのでは有形無形の道理を極めることができないのではないか、と懸念を示すんじゃよ。

確かに大本の方針を決めずに末端の規則だけ決めようとしても、根本の方針が変わればそんなものはひっくり返ってしまう。正論だな。 

孫呉との戦について

孫呉に対して、3人の征討将軍が献策を行ってきたんじゃ。三人の案はそれぞれ異なっており、それぞれ以下のようなものだったんじゃ。

1.船を浮かべて直ちに渡河し、長江の彼方を横行する

2.四方の道から同時に進撃し、城や砦を攻撃する

3.国境地帯で田作を行い、隙を見て行動を起こす

傅嘏は1と2は簡単ではないことから、3が一番まともな意見であると進言し、

「法令を明らかにし、長い策を振って敵の敗残の兵を迎え入れるのがよろしいかと存じます。これこそ間違いのない策です。」と述べるんじゃよ。

消極的と言えば消極的ですが、歴史の事実から、魏は呉を攻め滅ぼすのに相当時間がかかっていますものね。

更に傅嘏は諸葛恪が魏との戦いで勝利した後、青州・徐州に攻めるぞ、と宣伝したのに対して「海も淮水も簡単に通れる道ではございません。昔孫権は軍兵を派遣し海路を行かせましたが、波に漂い沈没し、多くが溺死しました。

今諸葛恪が全勢力を傾け、大きな流れに身を任せ、一か八かの成否を求めることなぞどうしてしましょうや。彼は青州・徐州に示威運動をさせ、主兵力を淮南に向かってこようとしているのに過ぎません。」

実際にこの時の諸葛恪は淮南の合肥に攻めてくるんだが、結局撃退されているからな。 

きちんと諸葛恪の行動原理を読み取れれば、傅嘏の考えに行きつけそうですが、筋道を立てて思考できると言うのは凄いですね。

毌丘倹の反乱について

毌丘倹が反乱を起こした時のことじゃが、最初、目の上の瘤を切って療養中だった司馬師の代わりに司馬孚を行かせれば良い、と言うものもいたんじゃが『漢晋春秋』によると、淮・楚の兵は屈強であり、毌丘倹も力を頼んで強力な相手であるから、万が一諸省が戦って負けると、公の事業は失敗しましょう、と強く説得するんじゃ。

これにより司馬師自ら戦場に赴くこととなり、鎮定に成功するんじゃよ。

この頃が司馬一族にとって一番の危機であったろうな。ただ、彼らの反乱をうまく呉が生かせなかったのは不幸中の幸いと言うべきであろうな。 

決して目立つ存在ではないが重要な局面で重要な進言を行い、政治的にも優れた統治能力を示した傅嘏についてはここまでじゃな。次からは新たな人物となるが、良ければ次もまたご覧くだされ。

 

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