さて、今回は劉禅の息子であり、後継候補者であった劉璿の紹介じゃな。彼は道半ばにして亡くなってしまったのだが、もしかしたら蜀の命運を変えたかもしれぬ人物なんじゃよ。
さて、今回は劉璿の紹介じゃな。劉禅の長男として生まれた人物だったんじゃよ。
どうも、張郃だ。劉璿に関しては演義等には出てこんので、知名度は低いと思うが、もし彼が後継者となっていたら、蜀の命運は変わっていたかもしれないな。
それほど重要な人物だった、ということですか?
彼は蜀志『霍峻伝』によると、騎射・射術を好み宮中の出入りには節度がなかったと言う。雰囲気としては若い頃の劉備にちょっと似ているように思えるのだな。
もちろん前線に立っているわけではないから、未知数な部分もあるが、非常に興味深い人物であるのは確かじゃな。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。
軍事・統率
軍事と統率に関しては上の蜀志『霍峻伝』にあるように、騎射・射術を好んでいたと言ことから武芸に優れていたと思うんじゃ。また、最後は姜維や鍾会と共に殺害された、とあるんじゃが、これは前線の蜀軍の抑え役のような役割を担うために赴いていたのではなかろうか。
なるほど、人質の意味もあったのかも入れないが、皇族で唯一軍に顔が利く人物だったと言うのがあるのかもしれないな。
知謀・政治
知謀と政治に関しては、同じく『霍峻伝』で宮中の出入りには節度がなかったとあるんじゃ。
また、郤正と孟光とのやり取りで、孟光が劉璿の学んでいる書物について訊ねた時
「親に仕えては慎み深く、朝から晩まで怠ることなく、古の世継ぎの風格を具えておいでです。おつきの群臣たちに接する時のおふるまいは仁愛を基としています。」
と答えるんじゃが、そんな通り一辺倒の答えなんぞ求めておらん、と一蹴されるんじゃよ。
通り一辺倒の回答をしている、と言うことは、こちらはそこまでは進んでいなかったと言うことでしょうか。
孟光は続けて我々学者のような学問をすれば良い訳でなく、帝王として学ぶべきことがあるはず、と言って郤正もこれに賛同をしていることから、何らかの形で劉璿の教育に取り入れておった可能性はあるが、どこまで身に付いたかは不明じゃのう。
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簡単解説
三国志14はずいぶん評価低いのですね。
騎射や射術を好んでいた、と言う記録は『劉璿伝』には載っていないからな。そうなるとこのような評価になるのかもしれないな。
元々演義にも出てこない人物ですから、この評価も仕方ない、と言ったところでしょうか。
そうだな、劉禅より祖父の劉備に近いかもしれない、と言うニュアンスを感じ取れば、もう少し評価が違ったかもしれないな。
とは言え他の作品には出てこないぐらいじゃから、かなりマイナーなのは間違いないからのう。こういう紹介で少しでも認知度が上がることを祈るのみじゃな。さて、今日のとこは一旦終わりじゃな。もまたよろしく頼むぞい。
それでは俺も帰るとするか。次もまたよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。