さて、今回は劉瑶の紹介じゃな。劉備の(恐らく)次男で、劉璿の弟、劉瓚等の兄に当たる人物じゃな。彼も記録は少なそうじゃな。
さて、今回は劉瑶の紹介じゃな。蜀志『後主伝』によると、238年に劉璿が太子に立てられた時に劉瑶も安定王とされているんじゃよ。
どうも、張郃だ。二人が同時に太子と王にされたと言うことは年子だったのかもしれないな。
二人が異母兄弟で同じ年だったと言う可能性はありませんか?
可能性はなくはないな。ただ劉禅の息子は先にも言ったように「王偏」の息子とそれ以外の偏の息子たちに分かれている。恐らく王偏は同母の子なのではないか。
そうなのですか。確かに字とかも統一性とかありましたね。
まあ実際のところは分からんのじゃがな。それでは劉瑶について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
ワシの持っておる三国志の蜀志『後主伝』によると、238年に「安平王」に封じられたとあるんじゃが、「安平王」は劉禅の弟の劉理及び彼の子孫が封じられておるんじゃよ。そこで調べてみたところ、『三国志全人名事典』の方では劉瑶は「安定王」に封じられた、とあるんじゃよ。恐らく三国志の方は誤植だったんじゃろうな。
まあ劉理の方は劉理が亡くなった後も王位を継いでいっているからな。劉瑶が入る隙間がなかったのは確かであろう。
師匠が資料をあちこちあさってみていたのは、王位の名前に間違いがないかどうかを確認するためだったのですね。
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簡単解説
能力的には全体的に抑えめなのは仕方がない所ですね。
記録が王になったことと、裴松之の注で蜀降伏後に劉禅と共に洛陽に移住していることぐらいしか記録がないからな。
他の記録のほとんどない王族と同じですから、仕方ありませんね。
劉備の一族も見飽きた方もいるかもしれんが、もう少しじゃな。さて、そんなところで今日は終わろうかのう。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。