さて、今回は曹丕が皇帝になった後、下した詔勅の数々について見ていくとしよう。さすがに皇帝にするための上奏文とかのやり取りは長すぎてまとめられんかったんじゃ、すまんのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹丕が皇帝になった後に、下した詔勅の数々を見ていくとしようかのう。
前回でもある程度のものは分かったと思うが更に掘り下げていくのですね。
人間性とか抜きにしてやっていることは非常に全うですよね。
そうなんじゃよ、あまりにも人間性にばかりフォーカスされることで、彼の事実が見過ごされているんじゃないかと思うんじゃよ。
人物紹介
221年1月の詔勅
魏志『文帝紀』の裴松之注『魏書』に詔勅が書かれているんじゃよ。
黄初二年(221年)一月十一日、潁川郡の一年間の田租を免除した。(『文帝紀』)
この時の詔勅に言う
「潁川は、先帝が兵を起こし、征伐を始めたまいし出発点である。官渡の戦役では、周りの地域が崩れ去り、遠きも近きも形勢を観望していた中で、この郡だけは道義を守り、若者も壮年の者も戈を担い、老いも若きも兵糧を背負ってくれた。
昔、漢の高祖(劉邦)は秦中(関中)を国家の本拠とし、光武帝は河内を王業の基礎と頼んだ。
今、朕がまたもこの地で壇に登り禅譲を受けたのは、天がこの郡をもって大魏を補佐し完成させているからである。」(『文帝紀』裴注『魏書』)
潁川の地は荀彧殿を始めとして多数の名刺を輩出した土地であり、曹丞相の初めての地盤として支えた地域であるからな。
期間限定とはいえ、こう言った施策はありがたいですね。
また同時期に次のような詔勅も下しているんじゃよ。
「昔、仲尼(孔子)は大聖人の才を資質とし、帝王にふさわしい器量を抱きながらも、衰えた周朝の末期に当たり、天命を受ける巡りあわせになく、魯・衛の朝廷に仕え、洙水・泗水のほとりで教化に努めた。
慌ただしく、うろうろと放浪して、自己の意を曲げて道を存続せしめ、身を落として世を救済しようと願った。
当時王公が全然彼を採用しえなかったので、引き退いて五代の礼を研究し、位なき王者としての事業を修め、魯の歴史記録を元に『春秋』を制作し、太師について『雅頌』(詩経)を正しく整理し、千年の後の人々も、全てその文面を基本として祖述し、その聖道を模範として考慮を巡らすこととなった。
ああ、一世を覆う大聖人、億万年後までの師表と言って良いであろう。
天下の大乱に遭遇し、あらゆる廟社は崩壊した。彼の旧居の廟も、壊れたまま修復されていず、褒成侯(孔子直系の子孫孔均)の後嗣も絶えたまま継ぐ者がない。闕里(孔子の旧居のあった村)では詩を講ずる声が聞かれず、四季には蒸(冬の祭り)・嘗(秋の祭り)の祭壇を見ることもない。
これでは一体礼を尊重し功業に報い、盛徳の者を百代後までも必ず祭祀すると言うことになろうか。よって、議郎の孔羨を宗聖侯に取り立て、百戸の領邑を与え、孔子の祭祀を奉じさせる。」(『文帝紀』)
この詔勅と共に魯陽に命じて旧廟を修復させたそうだな。
これそう言えば、どこかで孔羨のことをどこかで扱っていた気がします。
ふむ・・・今検索してみたが、これの件は「傅祇」の紹介の所に載っているな。
祭祀を祀ることに対して議論があった時のことですね。てっきり孔融の所に出てきていたと思ってそちらの方を見ていました。
さて、まだ曹丕の布令・詔勅に関しては続きがあるんじゃが、孔子廟に関する記述が長かったのでここまでとしておこうかのう。
ふむ、それでは俺も帰るとしよう。
張郃さん、お疲れさまでした。皆さん、次もまたよろしくお願いいたしますね。
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