さて、今回は曹鑒の紹介じゃな。今まで曹操の息子や孫が出てきておったが、曹叡以外には曹丕の息子は出ておらんかったが、彼は曹丕の息子の一人なんじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹鑒の紹介じゃな。上でも書いておるが、彼は曹丕の息子なんじゃよ。
どうも張郃だ。225年に亡くなったと言うことは父よりも先に亡くなったのだな。
魏の皇族は若くして亡くなる方が多いですね。
その辺りが魏王朝が短命に終わる遠因となったのであろうな。
そうじゃな。曹叡殿の時期に少し皇族を優遇しようとしたんじゃが、結局曹叡殿も若死にしたことで、その目が萎んでしまったからのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・知謀・統率・政治
魏志『文帝紀』を見ると、225年の秋七月、皇子の曹鑒を立てて東武陽王としたんじゃよ。じゃが同年11月に曹鑒は亡くなった、とあるんじゃ。
魏志『東武陽懐王鑒伝』を見ると235年に諡号を賜ったんじゃが、子がなく、国が没収された、とあるんじゃよ。
225年と言うことは例えば210年生まれとしてもまだ15歳ですね。
子がなかった、と言うことから成人していなかったのは確かだな。
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簡単解説
字が難しくて最初は読めませんでした。
まあ、現代の中国人も、簡体字を使用しているから読めない人は多いかもしれんな。とは言えお主らも古文をスラスラ読める人は多くはあるまい。そう言った変化も歴史そのものと言えるかな。
まあ、とは言え曹鑒に関しては記録がなさすぎるだけなんじゃがな。さて、それでは今日のとこはここまでとしようかのう。
よし、それでは自分も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。