さて、今回は曹丕の紹介、最後じゃな。今回は曹丕の個人的評価も含めて話をしていこうかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹丕の最後数年の行動、そして彼に対する私評でもしようかのう。
何だかんだでもう5回だから、結構続いたものだな。
民衆に対して非常に立派な為政者であった、と言うのは何となく見て取れましたね。
そうじゃな、それでは前置きはとっとと終わらせて、見ていこうかのう。
人物紹介
224年の行動
224年の文帝の行動は非常に忙しくなってくるんじゃよ。
黄初五年(224年)春正月、反逆のたくらみと大逆罪の場合は密告しても良いが、その他の場合は全て耳を貸したり取り調べをしてはならぬ、大胆にもでたらめの密告をする者があれば、密告された者の罪をもって断罪する、と初めて命令した。
~中略~
夏四月、大学を立て、五経の試験の法を制定し、春秋の穀梁博士を設置した。
五月、所管の役人は、公卿が朔(ついたち)望(十五日)の日に参朝した際、疑事を上奏し、政治に関する重大事を聴取して判断を下し、得失について議論し判定するようにさせてくださいと申し述べた。
~中略~
秋八月、水軍を作り、天子自ら龍舟に乗り、蔡河・潁水を通って淮水に浮かび、寿春に行幸した。揚州の境域にいる将兵人民の内、五年以下の刑に当たる罪を犯した者を、全員赦免した。
~中略~
冬十一月庚寅の日(十一日)、冀州が飢饉に陥ったため、使者を派遣して官倉を開いて彼らを救済させた。(『文帝紀』)
陳羣殿のところでも確認しないといけないが、恐らくこの頃九品中正法の制定もされていったのではないかな。
なるほど、そう言うことですね。
225年の行動
黄初六年(225年)春二月、使者を派遣して許昌以東沛郡の全地域を巡行させ、人民の困窮を慰問し、貧民には救済の手を打たせた。
三月召陵に行幸し、討虜渠(運河の名)を開通した。(『文帝紀』)
魏は曹丞相の時代にも北伐の際に運河を作っている、また賈逵も大運河を築いている。
運河と言うと物資の運搬に使われますが、そう言う目的で作られたのですか?
そうだな、陸路を運ぶより水路の方がはるかに大量の物資を早く運べる。兵站問題への回答となる訳だな。
曹丕に対する私評
さて、曹丕に対しては毀誉褒貶色々と評価がある。確かに皇族を冷遇したのは問題があるかもしれないが、そもそも後継者に選ばれなかった、と言うのが大きく影響していたであろう。
また、曹彰や曹植にアドバイスをするなど、決して冷徹のみの面だけではないことも事実だ。
師匠はかなり曹丕を高く勝っているのですね。理由を教えていただけますか?
理由は簡単じゃ。少なくとも曹丕の時代に法を整備し、運河を開通し、五銖銭を復活させた流れは明帝の時代にも引き継がれ、魏国に安定をもたらしているのは確かじゃ。
戦に負けたとか、国内の一部で乱がおこったのが曹丕の失政だと言うなら、三国いずれのトップも、いやほとんどの時代の名君と呼ばれる人物でさえ、失政していることになる。ダブスタ過ぎる言動が目立つんじゃな。
ああ、そう言う意味で言えば日本の信長とか家康だってアウトですものね。師匠はそう言ったの嫌いますものね。
相手の欠点だけをあげつらって何が楽しいんじゃろうな。わしには到底理解できん話じゃよ。とちとアツくなったが今日はここまでじゃな。
ふむ、今日はここまでだな。俺も帰るとしよう。それとくまの爺よ、今日のお主には文帝に代わって感謝する。どんな人物も欠点がないわけではないが、文帝は悪く言われ過ぎだ。ではまたな。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いいたしますね。
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