さて、今回は曹丕が下した詔勅の数々について見ていくとしよう。彼がどんな為政者であったか、これで少しは見えてくるかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹丕の下した詔勅の数々を見ていくとしようかのう。
文帝はその人間性ばかり語られることで、随分誤解されているように思うな。
確かに曹丕と言うと、冷酷と言うイメージが強くて、為政者としての実績は分からないですね。
そうじゃな、早くに亡くなったのは残念じゃが、それでは王時代の布令を見ていくとしようかのう。
人物紹介
220年2月の布令
「関所と津は旅商人を通行させるためのものであり、池と御苑は災害を防御するためのものであるのに、禁令を設け税金を重くするのは、人民に利便を与えることにはならない。
よって池にやなを張ることを禁止する法令を廃止し、関所と津の税を軽減し、全て十分の一に戻せ。」
辛亥の日(二月五日)、諸侯王・将相以下大将までの官に一万石の粟、一千石の絹を授け、各人等級を付けて金銀を賜与した。使者を派遣して郡国を巡行させ、道理に反し、大きな顔をして人を踏みつけにし、暴虐を働くものがあれば、その罪を弾劾させた。(『文帝紀』裴注『魏書』)
こう言う記録はほとんど知られていないが、例えばお主たちの国で戦国時代に楽市楽座があったであろう。あれによく似た施策、と考えれば文帝の政治能力の高さが伺えるであろう。
確かに政治センスの高さを感じさせますね。
220年7月・10月の布令
続いて220年7月の詔勅を見ていくとしよう。
「軒轅(黄帝)の時明台(政堂)における議論があり、放勛(堯)の時、衢室(四つ辻に建てられた建物)における質問があったのは、いずれも広く下民の意見を聴取するためである。百官有司は自己の職務に努め忠言を尽くすように。
指揮官は兵法について具申し、朝士は制度について明らかにし、牧守(州・郡の長官)は政治について進言し、学者は六経について考究せよ。わしはそれらを通覧するであろう。」(『文帝紀』)
古代の聖王の故事にちなんだ布令だな。良く学問をし、過去の事例に精通していなければ出せない布令だな。
更に10月にも新たな布令を出しているから、続けてみるとしようかのう。
「諸将の征伐に参加して死亡した士卒の内には、まだ遺骸を収容していない者があり、わしは甚だそれを哀れに思う。
郡国に申し渡して、槥櫝(ひつぎ)を支給してその中に収め、その家に送り届け、お上で祭祀を行うように。」(『文帝紀』)
ひつぎって、随分難しい漢字を使っているのですね。
これは『漢書』に見える高祖(劉邦)の布令を参考にしているのであろう。
「従軍して死んだ士卒には、槥を作ってやれ。」ここで応劭が注釈を入れているが「槥とは小棺のことであって、現在ではそれを櫝と言う。」つまり槥と櫝は同じひつぎを表していると言うことだな。
なるほど、実は同じ意味だった、と言うのですね。
ここは翻訳の方も結構苦労したのではなかろうかのう。さて、王の時代の曹丕の布令を見てもらったが、これもまだ一部でしかなかったんじゃよ。次は皇帝になってからの布令も見ていくとしようかのう。
今日はここまで、と言うことだな。それでは俺も帰るとしよう。
張郃さん、お疲れさまでした。見に来られている皆さん、次もまたよろしくお願いいたしますね。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい