三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

周峻(しゅうしゅん) 字:不明(?~?)

さて、今回紹介するのは周峻じゃな。先日紹介した周護の父であり、周瑜の兄の息子と言う関係じゃな。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は周瑜の兄の子、周峻の紹介じゃな。そう言えばここ数日人物紹介できなくて済まんかったのう。

風邪をひいていたそうですね。珍しいですね、師匠が風邪をひくのって。

久しぶりに風邪らしい風邪を引いた気がするわい。大抵普段は胃腸の方に来るからのう。まあ、そう言う時は無理しないのが大事じゃからな。

今日はもう大丈夫なのか? 

咳をすると胸が痛むから少し炎症を起こしかけてるかもしれんのう。まあ今日は無理せず早めに休むつもりじゃから、大丈夫じゃ。それでは周峻について見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 周峻(20歳)  85 50 40 45
 ↓ ↓ ↓  ↓↓
 周峻(45歳)  117 79 68 73

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

周峻についての記録も『周瑜伝』にわずかに記述があるようじゃな。

周瑜の兄の子である周峻も、周瑜に国家創業に勲功があったと言うことで偏将軍に任ぜられ、軍吏や兵士一千人を預かった(『周瑜伝』)

これだけですか。周瑜の兄の子、と言うことはいつぐらいの生まれになるんでしょうね。 

周瑜が175年生まれ、恐らくだが周峻は呂壱が処刑される238年ぐらいまでに亡くなっており、その時点で息子の周護は既に成人していると思われる。 

そう考えると190年頃か遅くとも200年までには生まれていそうですね。 

周瑜の兄が170年頃の生まれと仮定し、周峻が195年頃の生まれとすれば、218年の時点で23歳だから一応可能な範疇ではあるかな。 

 

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簡単解説

周峻の年齢は周護の逸話も呂壱の告発と何らかの関係があるのではないか?と言う推測からですよね。

それが前提の話だな。それにしても周一族がもう少し夏侯氏のように有力武将が多く、強固に孫家と結びついて支えていたら、呉はもう少し怖い国家になっていたかもしれないな。  

優秀な人材が多く揃うから、と言うことですか。

それだけに限らず家格の問題だな。いくら孫堅孫策孫権が優秀だったとしても家柄は一段劣る。特に豪族の力の強かった呉では、家格の重みは大きな影響力を及ぼしたであろう。

孫家に足りないそれを補ってくれたのは、間違いなく二世三公と、全国的にも著名な名族であった周氏であろうからな。  

ただ、だからこそ孫権は周氏に乗っ取られやしないか、と気を揉んで、周氏の力を削ごうとしたのかもしれんのう。

周瑜は間違いなく孫権を支えてくれていた。じゃが全ての周氏が同じように自分達を支えてくれる保証はどこにもないからのう。この辺りは難しい話じゃな。

さて、そんなところで今回はここまでじゃな。

よし、それでは今日のところは帰るとするか。あまり無理はせぬようにな。  

本当ですよ。それでは次もまたよろしくお願いしますね。