さて、今回紹介するのは周忠じゃな。彼は周一族の中で三公の一つ太尉に就いた二人目の人物、位人臣を極めた一人じゃな。じゃが彼もあまり記憶に残っておる人はおらんのではなかろうか。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は周瑜の従父であり、二世三公の一人でもあった周忠の紹介じゃな。
周一族を繁栄させた一人、と言うことですね。
記録はあまり残っていないのが残念だな。
やはりメインは周瑜じゃからかのう。まずは能力評価から見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
さて、周忠は「周瑜伝」と他にもいくつか記述がみられるようじゃな。
太尉の周忠・皇甫嵩、司徒の淳于嘉・趙温、司空の楊彪・張喜らが三公になった時、皆(一旦)辞退して士孫瑞に譲った。(『董卓伝』裴注『三輔決録注』)
(董卓死後)天子が東方へ向かった後、李傕がそれを追撃し、天子の軍は敗北した。司徒の趙温、太常の王偉、衛尉の周忠、司隷校尉の栄邵らは皆李傕にきらわれていたため、李傕は彼らを殺害しようとした。(『賈詡伝』裴注『献帝紀』)
あれ、賈詡の方では太尉ではないのですね。
192年頃に太尉に任じられた後、皇甫嵩が太尉になり、その際に周忠は衛尉に任ぜられたようだな。
従祖父の周景と、周景の息子の周忠とは、共に漢の王朝で太尉に任ぜられた。(『周瑜伝』)
そう言えば親子二代で続けて太尉になっていたのですね。
記録がこれ以上は乗っていないのが残念だな。統率が高めなのは太尉が、軍事部門の大臣である、と言う点と無関係ではなさそうだな。
更に言うと周一族には魅力の高そうな人物も多い、と言うことも関係していそうですね。
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簡単解説
周忠の父の記録はそこそこあったようですが、周忠の記録は少ないですね。
父の影響力もあったのかもしれんな。もっともそれを証明する術もないからな。
それにしてももう少し古い時代の人物かと思ったら、191年頃だったのはちょっと意外でしたね。
確かにワシももう少し前の時代と思っておったから、これは意外じゃったな。とは言え周一族の優秀な人物が増えたと考えれば、これは良いことじゃろうな。
さて、今回はここまでじゃな。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは今日のところは帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。