さて、実は一人、紹介する人物が漏れておったことに気が付いたんじゃよ。今回紹介する人物は孫恩、孫綝の弟に当たる人物じゃな。孫綝は色々と悪評の多い人物じゃが、孫恩はどうかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は孫恩の紹介じゃな。名前順から本当はもっと早くに紹介しないといかんかったんじゃが、遅くなってしまったのう。孫恩ファンの方いたら、申し訳ない。
ちなみに孫恩は、孫静の曾孫に当たる人物じゃな。
今回何故孫恩の紹介が漏れていたのでしょうか?
兄の孫綝が231年生まれで、三国志時代ではかなり遅い生まれだったからのう。司馬炎の236年ぐらいを目安になるべくそれ以降に生まれた人物は一部の例外を除いて、外しておったんじゃ。
孫恩もかなりギリギリの生まれと言うことで、最初は外しておったんじゃよ。
ただ、実際は結構早くから将軍としての記録が残っていたことから、孫綝とは年が近いと判断した訳だな。
そう言うことじゃな、更に孫恩の弟たちも将軍になったり爵位を賜っていることから、皆年子に近いぐらい年齢が近かったのではなかろうか。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率
孫恩の記録は、所々に分散して記述があるようじゃのう。
皇帝の孫亮が全尚や劉丞と孫綝誅殺の謀を巡らせていることが判明すると、太平三年(258年)、九月戊午(26日)の日、孫綝は兵を差し向けて全尚を捕え、弟の孫恩をやって(将軍)劉丞を蒼龍門外で攻め殺した。(『孫亮伝』)
(孫亮に代わり、孫休を皇帝に立てようとした際)武衛将軍の孫恩が丞相代行として、百官を引き連れ、常與と法駕(ともに天子の乗り物)を用意して、永昌亭まで出迎え、そこに宮居を作り、軍営用の帳を巡らせて、便殿(仮の御所)となし、御座を設けた。
己卯(18日)の日、孫休は永昌亭に着き、便殿を遠くから見やるとそこに足を停めて、孫楷にまずは孫恩と面会させた。(『孫休伝』)
孫綝の弟と言うことは258年ってまだ多分20半ばがせいぜいですよね。
これだけのことをやってのけているの、普通に有能じゃありませんか?
孫綝には数人の弟がいるが、この孫恩が一番出番と記述量が多い。孫綝にとって、一番頼りになる存在だったのであろうな。
知謀・政治
(孫休が皇帝となった後)孫恩は御史大夫・衛将軍となった。(『孫綝伝』)
孫休は(皇帝となった後)、孫綝らがクーデターを起こすことを恐れ、しばしば恩賞を与えた。
~中略~
十一月の戊戌(7日)の日の詔では次のように言った。
「大将軍(孫綝)は中央と地方の諸々の軍政を取りしきっており、その職掌は煩多である。衛将軍・御史大夫の孫恩を侍中に任じ、大将軍と分担して諸事の処理に当たるように。」(『孫休伝』)
ここでも孫恩を孫綝の補佐役としようとしているのですね。
もちろん、権勢を持っている連中だから、と言う部分はあるだろう。だがその中でも有能と思われる人物は選んでいる、とお主の師匠は判断したのであろうな。
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簡単解説
孫恩は能力的には結構評価が高いですが、こうなると孫綝の評価がどのようなものか、ちょっと気になりますね。
まあちょっと癖のある評価にはなりそうだが、詳細までは分からんな。
まあちょっとした小悪党と言う印象じゃが、そうじゃな、袁術みたいな感じと思ってもらったらええと思うぞい。さて、孫恩の紹介はここまでじゃな。
よし、それでは自分も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。