三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

孫峻(そんしゅん) 字:子遠(219~256)その2

さて、今回は孫峻の紹介2回目じゃな。今回は孫峻の背景、特に諸葛恪との関係について、少し深堀していくとしようかのう。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は孫峻の二回目じゃな。そういえば弟子よ、おぬし孫峻が諸葛恪を殺害したのは知っておろう。何故そんなことをやったか、知っておるか?

あまり詳しくは知りませんが、権力欲を持っていたから、目の上のたんこぶであった諸葛恪を殺害した、演義からはそんな風に読み取れました。

ふむ、演義はわかりやすく善悪の存在を作りあげているから、そう読み取るのも仕方がないか。 

と言うことはもう少し深い関係性がある、と言うことですね。

そういうことじゃな。それでは諸葛恪との関係から見ていこうかのう

人物紹介 

実は諸葛恪を孫峻は推薦

これは孫権が病に倒れ、寿命が尽きる少し前の話じゃな。

孫権は病の床に就くと、後事を誰に託すれば良いかを論じさせた。当時、朝臣たちはそろって諸葛恪こそその人物だと考えており、しかも(侍中であった)孫峻は上表をして、諸葛恪の器量は主君を補佐して政治を行うに足るもので、大事を託されるにふさわしいと申し述べた。(『諸葛恪伝』裴注『呉書』)

孫峻の方から諸葛恪こそ後事を託すのにふさわしい人物、として孫権に推薦していたのですか、ちょっと予想外ですね。 

これだけではないぞ。孫峻は繰り返し諸葛恪を推薦している。

孫権は、諸葛恪が自らの意見を押し通して事を行おうとすることに危惧を抱いていたのであるが、孫峻が現在の朝臣の中に彼に及ぶ者はないと言って、繰り返しその人物の確かさを保証したので、諸葛恪が召し寄せられることになった(『諸葛恪伝』裴注『呉書』)

こうなると諸葛恪と孫峻は元々協力関係にあった、と言うことですね?

そういうことだ。しかし残念ながらこの孫権の危惧が現実となってしまった。

老いたりとは言え、やはり三国の一雄となっただけのことはある。そして孫峻にはまだこの孫権の危惧を理解できていなかった。

孫権孫峻の差、両者の政治面の評価に大きな差がついた要因であろうな。

そしてこれにより両者・・・と言うか孫峻が諸葛恪を見限るわけだな。

諸葛恪の暗殺

さて、これは諸葛恪が北伐に失敗した時のことじゃ。この時の戦い方は独善的で、あちこちから怨嗟の声を生んだんじゃが、それだけでは済まなかった。

諸葛恪は、自分が遠征に出た後に選曹(人事院)が上奏して任命した地方長官や司たちをすべて辞めさせてしまって、(自分が)もう一度任命した。

彼はますます威信を張ろうと努め、、多くの人々を断罪し問責して、彼の前に出ねばならぬ者は、皆息をひそめた。

また禁中の宿営にあたる者を入れ替えて、自分に親しい者たちを任用し、再び命令を出して出陣の準備を整えさせ、青州・徐州に軍を向けようとした。(『諸葛恪伝』)

わかりやすい独裁政権を打ち立ててしまった、と言うことですね。 

そう言うことだ。史書では孫峻がこの機に乗じて政変を起こそうとした、とあるが、諸葛恪がここまで露骨に独裁を行わなければ、変わらず協力してたはずだ。

何よりこの諸葛恪暗殺は孫亮も関わっている。幼いとは言え聡明と言われた孫亮から見ても、諸葛恪の行動は目に余るものがあったのであろう。

それでは当日の孫峻の動きだな。

酒が幾巡りかすると、孫亮は奥に入った。

孫峻は立って廁へ行き、長衣を脱いで短衣をつけると、再び酒席にあらわれて言った。

「詔によって諸葛恪を逮捕する。」

諸葛恪は慌てて立ち上がったが、剣を抜く暇もないうちに、孫峻は刀でめった斬りにした。張約が傍らから孫峻に斬りつけたが、その左手を傷つけることができただけで、孫峻は返す刀で張約に斬りつけ、右臂を切り落とした。(『諸葛恪伝』)

おそらく孫峻の一番の見せ場であろうな。弓術・馬術に優れているだけでなく、自ら刀を振るい、諸葛恪を殺害した。

いろいろ考えたうえでの行動だったでしょうに、なぜ諸葛恪がおかした過ちを、孫峻・孫綝と繰り返すことになってしまったのでしょうか。 

実質的な国の頂点に立ったが故の猜疑心であろうな。頂点に上り詰めれば、あとはもう落ちるか引きずり落されるか、どちらかしかない。

特に諸葛恪と言う例を見てしまったが故、必要以上に周囲に警戒し、わずかでも反逆の目があればそれを徹底的につぶす。

結局はその立場に耐えうるだけの器がなかった、と言うだけのことだがな。

その辺りを考慮しての統率力の低さにつながる訳じゃな。

孫峻も少し時代が違えば、孫呉を代表する将軍になっていたかもしれん、じゃが彼の手には余る権力を手に入れたが故に、その立場を守るのに窮してしまった。

残念な話じゃ。さて孫峻に関してはある程度情報を絞っているので、彼に関して掘り下げれば、もっと色々と悪行も出てくるじゃろう。

だがそれは上の己の立場を守るための行動の延長上でしかないと考え、ここでは言及するのはやめておこうと思うんじゃ。彼は彼なりに必死で会ったじゃろうしな。

さて、そんなところで孫峻の紹介は終了じゃな。良ければ次もお願いしますだ。

 

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