さて、今回は紹介するのは楊奉じゃな。字や生年は不明、没年は197年じゃな。これにより韓暹の没年も197年で特定できたので、ちと記述を変えたぞい。
彼は白波賊の元頭領として河東の辺りで暴れまわっておったようじゃな。
さて、今回紹介する人物は楊奉じゃな。実は彼が白波賊のキーを握っておるんじゃ。
そう言えば何故韓暹の没年は決まってなかったのですか?
うむ、三国志全人名事典の方で韓暹の没年が196年となっており、一方楊奉では197年となっておったんじゃ。
ふむ、しかし記述だと楊奉が先に亡くなってから韓暹も亡くなっておるから、それだと時系列がおかしくなるな。
さよう、それで情報の確認を取るために一時不明としておったんじゃ。
ふむふむ、それで197年だと確信が取れたのですね?
そうじゃ、これは韓暹のところで劉備が楊奉を捕えた記述があるじゃろう。実は一時共闘関係にあった曹操と呂布じゃが198年に呂布は再び曹操に反旗を翻しておるんじゃ。
あ、なるほど、劉備によって楊奉と韓暹を失ったことにより、疑心暗鬼になって呂布は曹操に反旗を翻し、直接的に楊奉に断を下した劉備を攻めた、と言うことなのですね。
うむ、そう考えると197年に楊奉と韓暹が亡くなった、と言うのが妥当じゃと思うんじゃな。それでは楊奉の紹介と行こうかの。
人物紹介
白波から李傕配下へ
楊奉は丁度董卓死後、李傕と郭汜が長安を占拠しておった頃に名前が出てくるんじゃ。韓暹より少し早くに楊奉は名前が出ており、李傕と郭汜が反目し合っていた時期、彼らの配下であった、として楊奉は名前が出てくるんじゃ。楊奉は軍官の宋果と共に李傕暗殺を計画したが事が漏れたので反旗を翻したんじゃ。
これにより李傕は勢力を弱め、張済により郭汜と和解することとなったんじゃ。丁度この時期に献帝は長安から脱出に成功するんじゃが、一度郭汜が献帝を自らの下に置こうと考え追いかけてくるんじゃな。献帝は楊奉の陣へ逃げ込み、楊奉は郭汜を攻撃して撃破するんじゃよ。
あまり知らん人もいるかもしれんし、詳しいことは郭汜の紹介のところでやろうと思っているんじゃが、郭汜は実はかなりの剛の者で、その武勇を見ていくと、あの張遼と比べても引けを取らんのでは、と思わせるものがあったんじゃよ。
そんな郭汜を破った、と言うことから、楊奉の軍事能力は相当評価が高いと思えるんじゃ。更に言うなら丁度この時期、徐晃が楊奉配下になった可能性もあり、それにより更に楊奉軍は強力になっておった可能性があるのう。
さて、李傕と郭汜は天子を出発させたことを後悔し、弘農郡の曹陽県にて天子に追い迫ったんじゃ。ここで楊奉が呼び寄せたのが元白波賊の韓暹達なんじゃ。
この後の顛末は韓暹のところで書いた通り、楊奉・韓暹達の敗北じゃな。
征南将軍?楊奉
この危機を楊奉や韓暹等の活躍で凌ぐんじゃ。そして韓暹が征東将軍に、胡才が征西将軍に、もう一人を征北将軍としているんじゃが、三国志本編に楊奉の官職がなぜか書かれておらんのじゃ。
しかし東西北、ときておることから征南将軍だったのではなかろうか、と思うんじゃが、ここは何とも言えんのう。
この時期蝗害が発生し、また旱魃も起こり食物の収穫もなくなると言うダブルパンチで上下は混乱し、食料も尽き果てるというありさまだったんじゃ。
そこで韓暹等はそこで洛陽に戻すことにしたんじゃよ。道中、張楊が食料を携えて出迎えたのでやっと洛陽に付くことができたんじゃな。
郭汜を破ったと言うこと以外は、ここまで韓暹と書いていることに大きな差異はない感じじゃのう。
凋落の時
さて、献帝の下で好き勝手やっておった楊奉等じゃが、不穏な足音が聞こえてきたんじゃ。そう、曹操の上洛じゃな。
じゃが韓暹と違い、楊奉にはまだ臣従の意思があったようなんじゃ。この時曹操が献帝に参内した後、董昭にその後どうすべきか図った時に、董昭は「洛陽周辺の状況はあまりよろしくないことから、ここに留まり補佐をするのは好ましくない。速やかにみくるまを移して許に行幸させることです。」と進言するんじゃ。
すると曹操は「そのことはわし本来の希望じゃが、楊奉が近辺の梁におる。彼の兵は精鋭だと聞くが、わしの足を引っ張らないと保証できるかな。」と心配するんじゃ。
ここの足を引っ張る、と言うのは曹操の遷都の邪魔をしないか?と言う心配じゃな。
これに対し董昭は
「楊奉は味方が少なく、彼だけが曹操に心服しようとしているのです。(曹操が)鎮東将軍・費亭侯になられたことは、全て楊奉が主体となってやったことです。また聞くところでは、文書による命令に従うことは、信頼を示すことに足るとか。
~中略~
楊奉の人柄は勇敢ですが思慮が足りませぬから、疑惑を持たれることは決してありません。頻繁に使者を行き来させているうちに、計画を定めることができます。楊奉ごとき、どうして足を引っ張れましょう。」
と進言し、頻繁に書簡のやり取りをして、楊奉の気持ちをほぐし、遷都に反対して邪魔をできないようにして、うまく許へ遷都させたんじゃよ。
実はこの時徐晃が楊奉にそのまま曹操に降伏するように進言しており、楊奉も当初はそのつもりでおったようじゃが、途中で気が変わったようなんじゃな。
楊奉と韓暹は結局出奔するんじゃが、曹操は彼らを追わずに本拠の梁の軍営を攻撃し、降伏する者は降伏させ、刃向かうものは殺害して平定するんじゃ。徐晃が曹操に降伏したのもこの時じゃな。
これにより韓暹と楊奉は勢いを完全になくし、東方へ行き袁術に降伏するんじゃ。
徐晃と共にそのまま曹操に降伏していたら、どうなっていたかのう。張燕ぐらいには評価されててもおかしくないのではないかな。
最後の輝き
さて、この時の呂布じゃが、曹操と協調関係(表向き)にあったのは韓暹のところにも書いておった通りじゃ。
そして袁術は韓暹、楊奉等と連合戦線を結び、張勲を総大将にして呂布を攻撃させるんじゃが、楊奉達が裏切り、袁術軍が大敗したのは既に書いた通りじゃな。
しかし不意打ちとは言え、簡単に袁術軍を破っている辺り、実力も確かだな。
さて、そんな二人じゃが、最後の時を迎えるんじゃ。『英雄記』によると、劉備は楊奉を誘って会見し、その席で彼を捕らえた、とあるんじゃ。逆に言うとそう言うだまし討ちのようなことをしないと、楊奉を打つのは難しかった、と言うことかもしれんのう。
いくら武勇に優れた人物であっても、判断を誤れば最後はあっけないもんじゃな。少し惜しい人物とも言えるかもしれんのう。さて楊奉の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行くぞい。今回は天舞さん以外に出ておるぞい。
能力評価
楊奉は郭汜を破ったり、曹操そして恐らく劉備もその武勇を警戒しておったことから、軍事を特に高め賭したんじゃ。黄巾賊の中でもエース格の評価じゃな。その一方で曹操や劉備、呂布辺りにも調略でやられておることから、知謀や政治は最低クラスに評価を抑える結果となったんじゃ。強みを生かせたら相当使える人物じゃったろうな。
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雑談ぢゃ
さて、楊奉の能力評価じゃ。
ふむ、お主の評価ではだいぶ韓暹と差があるな。天舞の方も楊奉の方が評価が高いのだな。じゃがコーエーテクモさんのはあまり変わらんな。
鄭門さんのだと、逆に楊奉の方が低めの評価ですね。
そうじゃな、演義の評価であれば両者に大きな差が付くことはないからのう。
なるほどな、どちらの評価が基準になっているか、があるからややこしいのだな。
そう言えば、韓暹さんの時にちょっと濁した言い方していたのは、楊奉の方が遥かに高い評価になるからなんだよ、と言う意味だったのですね。
そう言うことじゃな、実績があり、武勇が評価されていたのも楊奉であった、ということじゃな。さて、長くなってしまったが楊奉の紹介はここまでじゃな。面白かったならば次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も戻るかな、次もまたよろしく頼むぞ。
良ければ次もご覧ください。それと他の方で興味ある方がいらっしゃったら、いかの索引をご覧くださいね。