三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

蔡邕(さいよう) 字:伯喈(132~192)その3

さて、二日ぶりですまんのう、今回紹介するのは蔡邕の3回目じゃな。幷州五原に流された蔡邕の続きを見ていくとしようかのう。

 

さて、今回は蔡邕の紹介3回目じゃな。

どうも、張郃だ。五原郡の辺りでは異民族監視のため、防人のようなことをやらされることとなる。それは蔡邕殿にとってつらい出来事であったろうな。 

防人と言うと兵として監視塔に立って見張りをしたりするってことでしょうか。結構過酷な話ですね。

体力的には苦ではないだろうが、監視業務のため、学問ができないのは辛かったであろうな、さて、それでは見ていくとしようかのう。

よろしくお願いします。

人物紹介

大赦により帰還

さて、本人にとっては無為な日々を過ごしておった蔡邕であるが、彼には心残りがあったんじゃ。

蔡邕は東観で、盧植、韓說らと、『後漢記』を撰補したのじゃが、朔方に流されたことで結局完成しておらんのじゃよ。彼としては続きを完成させたかったはずじゃな

翌年の大赦で、蔡邕をは故郷の陳留に戻ることができることとなったんじゃ。じゃが、一旦狂った流れはなかなか元に戻ることはできず、朔方から帰還する時、五原太守の王智がはなむけしてくれたんじゃが、実は王智は、中常侍(宦官)の王甫の弟だったんじゃよ。何らかの形で自身を辱められた、と感じた王智は蔡邕を怨んだんじゃ。

宦官だから、と言うだけで嫌う人物ではないと思われるから、何らかの失礼なことを王智がやった可能性はあるが、こればかりははっきり分からんな。

これにより蔡邕は再び朝廷内において身の危険を感じ取り、結局洛陽を離れ呉郡、会稽郡へ避難することとなったんじゃ。

ちなみにこの時期に泰山郡の羊氏の元にお世話になった時期もあるんじゃよ。

羊氏と言うと有名なのが晋の時代の名将羊祜じゃな。実は彼も蔡邕との関係があるんじゃが、それはまた後で語るとしようかのう。

蔡邕の音楽の才

蔡邕に関してはいくつかのエピソードがあるんじゃが、董卓時代の話をする前に幾つか見ていくとしようかのう。この辺りも宮城谷昌光氏の『三国志外伝』等を参考にさせてもらうぞい。

蔡邕が柯亭に宿泊した際、家屋の椽(たるき)の竹で笛を作り、宝物としたんじゃよ。

またこの故事から転じて、柯亭を笛のことを指す名前となったようなんじゃな。

次にこれは琴の話であるが、ある時、蔡邕桐(きり)を焼く音をきいて良材であることを知り、その桐材で尾部の焦げたままの琴の名器を作ったと言うんじゃ。

どちらも蔡邕の音楽の才、耳の良さを表したエピソードと言えるかのう。

さすがに文化人としても名を残すだけの人物ではあるな。 

さて、ことに関してはもう一つ別のエピソードがあるんじゃ。陳留にいたとき、蔡邕の訪問先で、ある人物が琴を弾いておったんじゃ。じゃが、蔡邕はその音色に、何故か殺意がまじっていることを感じたんじゃ。

蔡邕は、何ごとかと思ったところ。琴をひく人が次のように説明したんじゃよ。

「カマキリがセミを殺しそうな場面をたまたま見かけ、その場面を見ながら、琴を弾いていたのです。」

その話を聞いて蔡邕は、殺意の原因がそのカマキリとセミであったことに納得したんじゃよ。

と言うか、普通に琴の音で殺意の有無を感じ取れるって凄いことじゃと思うんじゃが、そんなことって簡単にできることなんじゃろうか。

気配は感じ取れるのだから、それが殺意なのか別の感情なのかを読み取れるかは、どれだけそう言った感情を、たたきつけられた経験があるかによるだろう。さすがに平和な今の日本で暮らしているお主らには、なかなか難しいだろうな。

それにしても、蔡邕の音楽の才は相当なものじゃな。更にその才能は娘の蔡文姫に伝わっておるのだから、遺伝と言うのは大したモノじゃのう。

さて、と言ったところで今日はそろそろ終わりとするかのう。次がいよいよ董卓時代じゃな。それでは次もよろしく頼むぞい。

 

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