さて、今回紹介するのは周朝じゃな。彼は先に紹介した人物と共に語られている人物なんじゃ。誰と共にかはすぐにわかるぞい。
さて、今回は周朝の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。ふむ、蘇馬と共に語られた人物だな。
張郃さん、は、はっやいですね、すぐ分かったのですか。
ま、まあ張郃殿は同時代を生きた人物ですからな(それにしても早すぎますぞ)。
同時代であの辺りにいた人物だ、関係性はすぐに割れよう。よし、さっさと行くぞ。
人物紹介
さて、蘇馬と共に、と言うことで記述内容もほとんど同じなんじゃが、見ていくとしようかの。
朱治が孫堅に従いだした頃、呉志『朱治伝』を見ると、188年に朱治は司馬に任じられ、長沙・零陵・桂陽三郡の不服住民の討伐に当たったんじゃ。
そこの不服住民の一人として蘇馬の他に周朝がいたんじゃな。
じゃが、蘇馬が長沙の辺りの住民であったらしいことなのに対し、周朝は零陵か桂陽当たりの住民だったようなんじゃ。
呉志『孫堅伝』を見ると、周朝等を討伐するために、孫堅は郡境を越えて討伐に向かっている記述があるんじゃよ。
本来であれば郡を越えて兵を率いるのは越権行為に当たるからな。それだけ零陵や桂陽の郡治がダメな状況であった、と言うことだろうな。
そう言うことじゃろうな。孫堅は「罪を得たとしても、天下の人々に何を恥じることがあろう。」と言ったそうじゃ。名より実を取る、現実的な人物じゃな。
さて、周朝の出番はここで終わりじゃ。本来蘇馬や周朝は188~189年頃には討伐されているので、この191年にはいない人物なんじゃが、蘇馬を出した以上、こちらも出さない訳にはいかず、登場となったんじゃよ。
まあ、劉表に対する抵抗勢力も出しておきたいからのう。それでは続けて能力評価と行こうかの。実は彼は三国志14にも出ているんじゃよ。
能力評価
周朝は不服住民として、朱治に討伐されているが、恐らく武事に優れていたから反乱を起こせたと思うことから、軍事能力を高めの評価としたんじゃよ。
じゃが、朱治に討伐された以外の記録が残っておらんため、蘇馬同様全体的には抑えめの評価じゃな。
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雑談ぢゃ
さて、周朝の能力評価じゃ。
ふむ、どちらも軍事(武力)がやや高めで、他は全体的に抑え目、と言うのは共通だな。
今回は三国志14とかなり近い印象ですね。
軍事が高く、次に統率と言う辺りが結構近い感じはあるのう、知謀と政治が低い辺りも。
実績がないとこの辺りの評価が基準になってくるのだな。
そうじゃな、ぎりぎり100行くかどうかの能力値が一つとそれ以外、と言う感じじゃからのう。さて、周朝についての評価はここまでじゃが如何だったであろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。