さて、今回は袁徽の紹介2回目じゃな。今回は前回以外のエピソードと能力評価へと行こうかのう。
さて、今回は袁徽の紹介2回目じゃな。
どうも、張郃だ。袁徽はずいぶん筆まめなようだな。それにしても司徒からの招きにも応じなかったとは、随分士燮の所の居心地がよかったのであろうか。
戦乱からはひたすら安全なとこまで逃げる、とおっしゃってましたから、交阯は理想的な地であったのかもしれませんね。
それだけ士燮の統治が優れておったことの証左であろうな。公孫度もそうであったが、優れた統治者の下には優れた人材が集まりやすい。そして彼らはそれを手放さないように努めるんじゃよ。
人物紹介
荀彧への書簡(再び)
前回、士燮のことをほめたたえる書簡を荀彧に送った袁徽であるが、ここにもう一つ別の書簡があるんじゃよ。
蜀志『許靖伝』をみると、袁徽は荀彧に書簡を送り、許靖のことを次のように評したんじゃよ。
「許文休は優れた才能を持った偉い男で、物事を処理する十分な策略を具えております。故郷を離れて以来、多くの士人と一緒に行動しておりましたが、危急の事態があるといつも他人の安全を先に考え、自分は後になり、九族(祖父の祖父から孫の孫まで及ぶ親族)の人たちと飢えや寒さを共にしておりました。
その同族に対する規律も、哀れみ深くいたわりがあるので全て利き目があり、いちいちこれを列挙するのは不可能なほどです。」
劉備や法正の許靖に対する評価とはだいぶ違うな。そもそもこの袁徽の許靖評を見ると本当に成都を包囲された時に逃げ出そうとしていたのか、何かのトラブルがあったのではないか、とも思えるな。
確かに一族のものを放り出して自分だけ逃げるような人物ではないように思えるのう。
何かをやろうとしたことが逃亡と間違えて受け取られてしまったのかもしれんが、そこはさすがに分からんのう。
さて、これにて史書に載っている袁徽の情報はおしまいじゃ。ほとんどは彼の発言、書簡のみじゃが、なかなか強烈な個性を出していたと思うぞい。それでは続けて能力評価と行こうかの。彼はワシ以外じゃと天舞さんに登場してるようじゃな。
能力評価
袁徽は優れた学者であり、その博識ぶりが当時から評判であった、ということから文治面を高く評価したんじゃ。政治は司徒からの招きを断るなど自由人らしい側面もあることから知謀よりは抑えめとしたんじゃ。
軍事面は戦乱を避けるため、交阯へ逃げていることから、こちらはさすがに高い評価という訳にはいかず、かなり抑えめとしたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、袁徽の能力評価じゃな。
ふむ、お主の評価も高いが、天舞三国志の方は知謀より圧倒的に政治が高いのだな。
政治から人徳の評価は士燮にも劣らないほどですね。。
うむ、じゃがワシの中で政治が高く知謀が低い人物というのは、官僚タイプの人物なんじゃな。具体的な例でいうと石田三成とかがそうであろうか。
ふむ、中華でいうと陳羣殿や諸葛亮が近い人物だな。確かに印象として、知略よりは政治が高く、法律等きっちり物事に当てはめるのが得意な人物が該当しているな。
逆に知謀が高い人物は固定観念に捕らわれない、自由な発想のできる人物じゃな。賈詡殿とかはその最たるものじゃなかろうか。
袁徽に関しても、兄の袁覇や従兄の袁渙がどちらかと言えばお堅いタイプの人物であるのとちょっと違うイメージじゃからな。さて、これにて袁徽の紹介はここまでじゃな。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、今日はここまでだな、俺も帰るか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。