さて、今回は袁忠という人物の紹介じゃな。字は正甫、生没年は不明じゃ。おそらく彼を知っている人物はそう多くはないのではなかろうか。彼の存在は史書の見方には注意が必要、ということが良くわかる、ある意味重要な人物なんじゃよ。
さて、今回は袁忠の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。上のことを書いている、と言うことはあの話だな。
張郃さんは事情を知っているのですか。私は全然理解できていないです。
うむ、歴史書というのは人の手によるものである以上、必ず偏向や創作などが含まれる可能性がある、ということを十分留意せねばならん、と言うことじゃよ。
人物紹介
さて、先日の袁徽は汝南袁氏とは別系譜と書いたが、こちらの袁忠はバリバリの汝南袁氏の一族じゃな。袁紹や袁術とは祖父が兄弟同士という関係じゃな。
『三国志全人名事典』によると、後漢末に沛国の相となったんじゃが、戦乱を避けるためか、官を去って揚州の上虞に避難したんじゃよ。
じゃが孫策が侵攻してくるにあたって会稽を脱出し、海路交阯へ脱出した、とあるんじゃ。後に献帝に召されて衛尉となるんじゃが、赴任する前に亡くなるんじゃよ。
さて、最後に献帝に召されて衛尉となったとあるが、この頃献帝は曹丞相の下におり、人事権はほぼ丞相が握っていたことにより、丞相の意向により袁忠が召された、と見るのが自然だ。
確かにそう思うんじゃが、これが『曹瞞伝』によると次のようになるんじゃ。
「その昔、袁忠が沛国の相であった時、法によって太祖(曹操)を処罰しようとしたことがあった。~中略~
袁忠は交州に避難したが、太祖は使者を太守の士燮の下にやり、一家をすべて皆殺しにした。」
ちなみに『後漢書』によると、袁忠が沛国の相だったのは初平年間(190~193)のことだったようじゃ。それも戦乱を避けて揚州に避難していることから、191年ごろはもう避難しておった可能性が高いんじゃよ。
そうすると190年頃に曹操は処罰を受けようとしていたはずじゃが、190年頃は反董卓連合軍に参加している真っ最中じゃ。どのタイミングで処罰できるというんじゃろうな。
このことからもわかる通り、『曹瞞伝』は本当にゴシップネタが多い。三国志演義で劉馥が亡くなった年が赤壁と同年だから、と言う理由だけで曹操に斬殺させた演義を笑えないぐらいひどい話じゃ。
さて、これにて史書に載っている袁忠の話はおしまいじゃ。続けて能力評価と行こうかの。彼はワシ以外じゃと天舞さんに登場してるようじゃな。
能力評価
袁忠は後漢を代表とする清流派の人物だったようで党錮の禁で捕まったりもしたようなんじゃ。相だった時もその清廉さは評判だったようで、そのことから政治を高い評価としたんじゃよ。
一方軍事面は戦乱を避けるため、最終的に交阯へ逃げていることから、袁徽同様高い評価という訳にはいかず、抑えめとしたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、袁忠の能力評価じゃな。
清流派であったこと、相としては評判であったことから妥当なところではなかろうか。
師匠たちが上で話をしていたのは『曹瞞伝』のことだったのですね。確かにいろいろと曹操が手をまわした、とやるのは無理があるように感じますね。
うむ、じゃが世の中にはこの『曹瞞伝』を引き合いに出して曹操は残酷でひどい奴だ、と言う輩もいるから厄介なんじゃよ。
その手の輩は自分にとって都合の良い情報だけを盲信して、人の意見を聞こうとしないからな。相手にするだけ無駄だ。
確かにどこまで行っても平行線をたどるだけ、と言うのは見かけるからのう。まあワシも考え方は偏っているのは確かじゃから、あくまでも自分はこう思う、としか言わんがのう。
さて、愚痴っぽくなってしまって申し訳ないの。これにて袁忠の紹介はここまでじゃな。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、今日はここまでだな、俺も帰るか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。