さて、今回は公孫度の孫であり、反乱を起こした公孫淵の兄である、公孫晃の紹介じゃな。彼は公孫淵の反乱に巻き込まれてしまった悲劇の人物じゃな。
さて、今回は公孫晃の紹介じゃな。弟の反乱の結果、彼も犠牲になってしまった非常に不幸な人物じゃな。
どうも、張郃だ。元々は公孫恭によって都に人質として送られていた人物だが、何事もなければ、彼が公孫一族の棟梁として跡を継ぐはずだったのであろう。遼東を保持できたかどうかは別にしてもな。
公孫淵の危険性を見抜き、彼の討伐を上奏するなど、判断力はさすがに公孫氏の御曹司と言った感じではあるが、最終的には同族である、と言う鎖からは逃れられんかったようじゃな。
討伐を上奏していたのに、それは容れられず、でも彼の言うとおりになったら、彼も処刑されるというのは、何だかちょっと納得いかないですね。
仕方あるまい、魏は法治国家として律令制度を整えていった国であるから、反乱した人物の一族を安易に許すことも不可能じゃからな。そう言えば新しいレイアウトにして、何か気づいたことはあるか?
そうだな、昨日の公孫恭の能力の項目ごとの意見が、自分たちの分も含め、何度も同じことを書いていて、読んでて煩雑に思ったな。
それは私も思いました。特筆事項がなければ、いっそまとめてしまっても良いのではありませんか?
ふむ、それでは今日の公孫晃に関しては一度まとめられそうな部分はまとめる方向でやってみるとするか。
能力評価
さて、それでは各項目について史書の内容を紐解いていくとしようかのう。
軍事・統率
軍事と統率に関しては特にみるべき要素、実績はないため、どちらも評価としては抑えめな値になるんじゃよ。
この辺りは公孫恭の正式な跡継ぎになれなかったことも痛いな。もしちゃんと跡を継げていたらもう少し違った評価になったかもしれないな。
知謀
知謀に関しては、魏志『公孫度伝』の裴松之注『魏略』によると、公孫淵が公孫恭の位を奪い取ったと聞くと、公孫淵ではその位を保持しきれないと考え、しばしば上奏して国家によって公孫淵を討伐させようとしたそうじゃ。
また、この上奏により、公孫淵の罪に連座したくはない、と願い出たが、公孫淵と骨肉の関係にある以上、罪を逃れることはできない、と言うことも自覚していたようじゃ。
悲しい話ですが、情勢を見抜き、最後は自分がどうなるかまで理解していた、頭の良い方だったのですね。
政治
知謀の所で先を見通す能力は持っておったが、政治的に自身の危うい立場を覆すまでには至らんかったんじゃ。当時の皇帝(曹叡)も彼を助けることができないかと考えたが、結局役人たちの反対もあり、彼に死を賜らせるしかできんかったようじゃな。
明帝も彼を反逆者の一座として民衆の面前で処刑するのははばかったみたいだな。もっとも高柔殿はきちんと処刑するなら表立って処刑する、減刑するならその理由をちゃんと詳らかにするべき、と異議を立てたようだがな。
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簡単解説
それにしても、公孫晃の上奏はなぜ聞き入れられなかったのでしょうか。
これはまあ単純な話であろう。公孫晃は自身の弟のことをよく知っているから、彼の考え、行動そして危険性を十分に認識していたであろうが、他の魏の朝臣たちはそこまで知らん。実際に反乱が起きないとおいそれと動くことはできんのだ。
それって、例えば日本の警察が危険人物であっても、実際に犯罪行為を起こさないと動けないのと同じ感じですかね。
歯がゆい話だが、それが法治国家の在り方でもあるからな。そしてまた法治国家であるがゆえに弟の罪に連座せざるを得なかった。まあ法律などは整備しても穴はあるし、理不尽な部分も当然ある。だが法律がなければ無法地帯になってしまうのも確か。
う・・・ん、いろいろと難しい話なんですね。ただそれでも、何とか救える道はあったんじゃないかと考えてしまいますね。
まあ、そちらも結局、役人として特例を認めると、法の取り締まりが効かなくなる、と言うのを嫌ったためであろう。ある程度魏国内が安定化して人々が法に縛られる生活を送るようになったがゆえに起きた悲劇じゃな。まだ曹操の乱世の時代なら何とかなった可能性はあるんじゃろうがな。
さて、悲劇の王子、公孫晃の紹介はここまでじゃな。それでは今日はこの辺りで終わろうかの。良ければ次もまたよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も戻るとするか。次もまたよろしく頼むぞ。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。