三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹袞(そうこん) 字:不明(?~235)その2

さて、今回曹袞の続きじゃな。今回は彼の発言などをまとめ、その人柄や才能を深掘りしていくとしようかのう。それでは早速行くとしようかのう。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回も曹袞の続きじゃな。

どうも、張郃だ。前回の紹介でもおよそ読めるが、今回はさらに彼の思想や人柄が分かるように、と言うことだな?  

人物像を補足する内容と言うことですね。早速お願いします。

そうじゃな、それではぼちぼち見ていくとしようかのう

人物紹介

黄初二年(221年)時の発言

魏志『中山恭王袞伝』で次のように書かれているんじゃよ。

黄初二年(221年)、曹袞は公に爵位が昇進した。属官達は皆慶賀したが、曹袞は次のように言ったんじゃ。

「わしはだいたい宮殿の奥深くに生まれ、農耕の難儀さも知らず、不遜とわがままから来る過失が多いであろう。諸賢にはその喜びを祝ってくれたからには、当然その欠陥を救ってくれよ。」

自身に対する客観的な評価と、さり気に周囲に協力させるような方向に持っている辺りさすがだな。 

青龍三年(235年)時の発言

青龍三年(235年)の秋、曹袞は病気にかかった。~中略~曹袞は病気が重くなると、属官たちに命令した。

「わしは徳の少ないのに恩寵をかたじけなくしているが、寿命はもう終わろうとしている。わしは質素を好むが、朝廷におかれても、死後の奢侈を戒める制度を公にされ、天下の規範となっている。わしの息が絶えた時には、殯(かもりがり、遺体を棺に収めて安置する)から埋葬までつとめて詔書を奉ぜよ。

昔、衛の大夫蘧瑗は濮陽に埋葬された。わしはその墓を望み見、つねにその遺風をしのび、賢者の御霊によりつつ我が身を終え、我が墓地を営む時には必ず赴いて彼に従いたいものと念願してきた。

『礼』では『男子は婦人に世話されて死なぬ』ことになっている。速やかに間に合うように東堂を完成せよ。堂が完成すれば遂志の堂と名付けよ。病身を扶けてもらって、そこに行って住まうであろう。」

蘧瑗は字を伯玉と言い、孔子の友人であった人物だな『礼』では彼の逸話として、ある時、孔子が家にいると、馬車の音がした。しばらくすると一度馬車が止まり、少ししてまた動き出した。孔子はこの馬車は蘧伯玉に違いないと言うのだ。 

それがどうして蘧瑗だと断言できるのでしょうか、またそれがどのような意味を持つのかが分からないです。

当時、先輩の家の前を通る時は車から降りて通ると言うのが礼儀であった。だが実際にそんなことを行う人物は少ない。そんな中でも蘧瑗は人のいるいない関係なしにそれを必ず行う人物であったのだ。 

なるほど、それが礼儀をきちんとできる人物として、彼は非常に高く評価されていたのですね。曹袞もそのような人物を目指していた、と言うことなのですね。

また、世継ぎへの言葉も残っておるんじゃよ。

「汝は幼く、まだ正しい道を開いていない。早く人君となれば、ただ安楽のみを知って苦痛を知らぬ事となる。苦痛を知らなければ、必ずや不遜と奢侈によって間違いを起こすことになろう。

・大臣に接する時は、礼によるよう努力せよ。大臣でなくとも、老人に対しては答礼をするのが当然であるぞ。

・兄に仕える時は敬意をもってし、弟をいたわる時には慈しみをもってせよ。

・兄弟によからざる行為のある時は、膝づめでその者を諫めよ。

・その者を諫めても聞き入れない時は涙を流してその者を教え諭せ。

・その者を教え諭して改めなければ、そこでその母に申せ。

・もしそれで改めなければ、当然そのことを上奏し、領地を辞退すべきである。

・恩寵を保持し続けて災難にかかるよりは、貧しさと低い身分の中で身を全うする方が良かろう。

基本は礼を中心とした考えを息子には伝えていると言うことだな。息子への遺言はまだ続きがあるのだな。 

「このことは当然大罪悪について言っているのだ。彼らの小さな過失やわずかな失敗は、もちろんそれらをかばってやらねばならぬ。

ああ、なんじ小子よ、謹んで汝の身を修めよ。朝廷に対しては忠誠をもって奉仕し、太妃に対しては孝心と敬意をもって仕えよ。奥御殿の中では太妃のご命令をかしこみ、外では沛王の指示を受けよ。

汝の心に怠け心を起こさず、よって我が霊魂を慰めてくれ。

同年、曹袞は亡くなったんじゃよ。

忠や義ではなく、礼を中心とした考え方はちょっと異質な感じはしますね。

それだけまじめな人物であったと言うことであろう。まあ丞相の息子にはいろんな種類の子がいる。目立ちはしないが彼もまた尖った性格の人物であった、と言うことであろうな。 

今までわしもここまでこの発言を深掘りして読むことはなかったからのう。改めて面白い人物が曹操の一族には多いと思わせたのう。

さて、それでは今回はここまでじゃな。よければ次もまたご覧くだされい。

 

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