三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹袞(そうこん) 字:不明(?~235)その1

さて、今回は曹操の息子の一人、曹袞の紹介じゃな。最近曹操の一族とは言え、小粒な人物が多く、ちと辟易していた人もいるのではなかろうか。そんな方たちには曹袞はお勧め、知名度は低いが才能は抜群、そんな人物なんじゃよ。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹袞の紹介じゃな。曹操の息子で、曹丕曹植等の陰に隠れて目立たんが、彼の優れた才能を有した人物なんじゃな。

知名度は・・・そうですね、私は初めて聞いた方です。

まあ、演義にもお主らの戦略遊戯にも出ていない。才能も曹植殿に次ぐ評価であるからな。とは言え、曹植殿の真の才能を理解している人物がどれほどいるのか。そこを知らずして曹袞殿の評価もできぬであろうな。 

そうじゃな、曹植の凄さを語る前で、どれだけ曹袞の凄さが伝わるか。難しい話じゃがやってみるとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 曹袞(20歳)  25 95 115 90
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓↓ ↓↓
 曹昂(45歳)  51 128 150 123

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事

曹袞の記録について魏志『中山恭王袞伝』を見ると、次のように記述されているんじゃよ。

中山の恭王曹袞は、若い頃から学問好きで十余歳にして上手に文章を作った。書物を読んでいる時は、文学の官や近時の者は彼が熱心過ぎるので病気にならないかといつも心配し、度々読書をやめるように忠告した。

しかし生まれつき好きなものであり、やめることができなかった。

俗にいう、三度の飯より読書が好き、と言うことですね。武芸の方にも興味なさそうですし、そのために軍事は低めの評価となっているのですね。 

統率

ここでは統率と言うよりも曹袞の魅力になるんじゃな。すでに上で周りの者が放ってはおけないような魅力を持っていることが分かるんじゃが、魏志『中山恭王袞伝』の続きには次のように記述されているんじゃよ。

兄弟で遊び楽しむときにいつも曹袞はただ一人経典に思いを凝らしていた。文学と防輔の両官は互いに言い合った。

詔勅をお受けして公の行為を観察している。過失があれば当然上奏すべきだが、善事がある時も、上聞に達するのが当たり前で、その美点を隠してはいかん。」

かくて上奏して曹袞の美点を称揚した。

確かに監督官って普通は問題となる行為などを上奏する役目なのに、美点の方をわざわざ上聞するって、なかなか普通ではありませんね。 

ところが、これに対して曹袞は喜ぶかと思いきや、次のように言って恐縮するんじゃよ。

「わが身を修めて羽目を外さないようにするのは普通の人間のやることだ。それを諸君は上聞に達した。これでは全くわしの負担が増すだけだ。

それにもし善事があるのなら、どうして世に伝わらないことを気にかけよう。それなのに突然一緒になってこんなことをする。

これはわしに利益をもたらすものではないぞ。」

曹丞相の息子とは思えないほど、慎み深い人物だな。それが曹袞殿の魅力であり、限界でもある、と言うことだな。なるほど、だから魅力もこの評価に抑えられた、と言うことか。 

人間的魅力は非常に高いが、乱世の英雄たる人物ではない、と言うことですか? 

有り体に言えばそう言うことだな。優れた才能があっても皇帝になってやろう、と言うぐらいの気概を持つ人物でなければ担ぎようもないからな。 

知謀・政治

知謀に関しては最初に語っていることから分かるように、若くして文学の才能に目覚めていたことからもわかるじゃろう。更に魏志『中山恭王袞伝』によると。

曹袞は黄初七年(226年)、濮陽に国替えされた。太和二年(228年)、領国に赴いた。倹約を尊んで、妃妾たちに命じて糸を紡がせ機を織らせ、召使いのやるべきことを習わせた。

~中略~

曹袞の著述した文章は全て二万余字あり、才能は陳の思王に及ばなかったが、好んで彼と張り合った。

領国において、このようなことをやったと言う記録はなかなか珍しい。更に文章をこれだけ残していた、と言うのも特筆すべき事項であろうな。 

さて、その割に政治が少し低いと思う方もおるかもしれんが、次の一文が理由となっているんじゃよ。

太和五年(231年)冬、曹袞が入朝した時、首都の禁令に違反した。

これは何をやらかしてしまったのでしょう? 

詳しいことは分からんが、恐らく首都洛陽内における特殊な法令で、恐らく曹袞殿はそれを知らなかっただけなのであろう。それは詔勅の内容からも伺えるな。 

なるほど、曹袞の性格から、分かっててわざわざ禁令を破るなんてことは、絶対しなさそうですものね。 

 

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簡単解説

これだけの才能の人物が、他のどの作品にも出ていないって、ちょっと残念ですよね。

そうだな。それにしてもこれだけの才能の持ち主となると、お主の師匠もまだまだ語り足りなさそうだな。  

そうじゃな、上にも少し曹袞の発言を語っているが、彼の発言は他にも残っておる。これ次に紹介しておくとしようかのう。

それと明日からちと出かける用事があって、週末までは更新できそうにないんじゃ。スマンがこの続きは週末まで待っておいて欲しいんじゃ。申し訳ないのう。

ふむ、では次は週末だな。それでは俺も帰るとするか。  

張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。