三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹爽(そうそう) 字:昭伯(?~249)その2

さて、今回は曹爽の続きじゃな。曹真の息子であった彼の逸話について、どんな話があったのか、見ていくとしようかのう。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹爽の逸話についてじゃな。彼は色んなところに記録が残っているので、情報を整理するのが、ちょっと大変なんじゃ。

それで時間がかかっているのだな。それではポイントを絞って情報をまとめていったらどうだ?  

そうじゃな、それではまず彼によって引き立てられた人物について、見ていくとしようか

既に賈充や裴秀と言った人物が挙げられていましたね。他にもいる、と言うことですか。

そうなんじゃよ。情報が分散しすぎていることから、まずは彼と関わりのある人物についての情報を順番に見ていくとしようかのう

人物紹介

袁淮

正始七年(246年)、呉の大将朱然が柤中に侵入して、数千人を斬殺したり捕えたりしたため、柤中の官民一万余家が沔水を渡り避難した。

袁淮と言う人物が長江・淮水の北に拠点を移し、賊(呉)の得意としない地で戦うことができる、という利点があるためです、と進言するが、曹爽は聞き入れられなかった。(『斉王紀』裴注『漢晋春秋』)

戦略的観点はもう一つと言ったところでしょうか。

そうだな、この時には司馬懿も同じような進言を行っているが、それも聞き入れてはいないようだな。 

夏侯覇

夏侯覇は平素、曹爽に手厚く待遇されていたので、曹爽が誅殺されたと聞くと疑心を抱き、蜀へ亡命した。(『夏侯淵伝』)

同じ皇族と言うことで曹爽は夏侯覇を引き立てていたのですね。

この辺り、横のつながりはあったと言えるのであろうな。こういうのはもう少しあった方が魏のためには良かったと思うのだがな。 

王経

王経は江夏太守であった時、大将軍の曹爽は絹二十匹を渡して、呉と交易させようとしたんじゃ。じゃが、王経は文書を開きもせず、官職を捨てて帰郷した。

母が何故帰ってきたのかを尋ねると王経はありのままを答えた。

王経の母は、王経が兵馬を預かりながら勝手に職を離れたとして、罰として吏の下に送り届け、杖で50回たたかせた。曹爽はこの話を聞いてそれ以上罰しようとはしなかった。(『夏侯尚伝』裴注『世語』)

ここは呉に対して利敵行為につながると言うことで拒否をした、と言うことでしょうか。

この辺りは少し判断が難しいが、恐らくその考えで良いであろう。ただ王経は後に曹髦殿の乱に巻き込まれて処刑されてしまうのだがな、残念な話だ。 

劉陶

劉曄の末子劉陶は優れた才能の持ち主だったが、品行が劣った。(『劉曄伝』)

当時の劉陶はなかなか評判が高く、雄弁家だった。曹爽が権力を握っていた時代、選部郎になり、鄧颺の一党は彼を伊尹(殷の名相)・呂公(周の名相)だと褒めたたえた。(『劉曄伝』裴注『傅子』)

劉曄の息子ですか、策略に優れていそうですね。

『傅子』は傅玄の一族が記録したもののようで、彼は劉曄及びその一族を貶める傾向がある。あまり鵜呑みにしてはいけないが、この程度の情報なら参考にはなるな。 

応璩

建安の七子の一人である、応瑒の弟の応璩は学識広く、文章を作るのが上手で、書と記を得意とした。

~中略~

斉王が即位すると次第に昇進して侍中・大将軍長史となった。曹爽は政権を握ると法律制度に違反することが多かった。応璩は詩を作ってそれを風刺した。その言辞はいささか迎合している趣はあるが、多くは時代の要求に適合しており、世間では皆それを伝えている。(『王粲伝』裴注『文章叙録』)

建安の七子の弟と言うことは、応璩にも詩文の才能があったりしたのですか。

そちら方面の才能は高かったようだな。それにしても何だかんだで曹爽殿に繋がりのある人物は多いようだな。 

阮籍

竹林の七賢の一人である阮籍はのちに尚書郎・曹爽の参軍となったが、病気を理由に郷里に帰った(『王粲伝』裴注『魏氏春秋』)

建安の七子に続いて竹林の七賢ですか。なかなか興味深い人物と関わりがあるのですね。

何晏らは老荘思想に染まっていたし、儒学に傾倒する連中とは一線を画しているようにも思うな。 

衛臻

曹爽は政治を補佐すると、夏侯玄をやって意向を伝えさせ、衛臻を招き朝廷に入れて尚書令を兼務させたいと思い、また弟のために嫁を求めたが、すべて承知しなかった。(『衛臻伝』)

衛臻は曹爽に従わなかったのですね。

ここまで徹底して拒否しているのは、上のような思想の問題であった可能性も考えられるか。 

盧毓

斉王が即位した当時曹爽が権力を掌握し、自己の勢力を政府内に打ち立てようとし、盧毓を僕射に移し、何晏を盧毓の後任とした。(『盧毓伝』)

盧毓は曹爽に従っていたようですね。

列伝が立てられている人物でも、曹爽殿に従っている。実は曹爽殿を誅滅するのは思った以上に簡単なことではないのだよ。 

細かい逸話じゃが、思った以上に曹爽と関わっている人物は多いんじゃのう。さて、もう少し彼については続きを載せていくとしようかのう。良ければ次もご覧くだされい。

 

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