さて、今回はあの曹真の息子であり、司馬懿と権力争いを繰り広げた曹爽の紹介じゃな。彼は司馬懿の引き立てられ役として史書でも演義でもかなり貶められているが、果たしてそれだけの人物じゃろうか、ちょっと気になるのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹爽の紹介じゃな。言わずと知れた曹真の息子だな。
上でも書かれていますが、彼は本当に不肖の息子だったのでしょうか。
事実として家を滅ぼしてしまったのだから、そう言われても仕方がないがな。ただ、彼については少し情報の精査が必要であろうな。
それは・・・単純にマイナス評価だけではない、と言うことですか。
そうじゃな、『曹真伝』に書いてあることが全てではない、他の人物の伝を見ると、また少し違った側面が見えてくる。そう言った部分も拾い上げていきたいのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀
曹爽については主に魏志『曹真伝』に載っているんじゃが、それ以外にもあちこち記録が残っていることから、全体像が掴みにくいんじゃよ。
ただ、軍事や知謀に関する記録は多くなく、蜀征伐で敗北することぐらいしか残っておらんのじゃよ。
蜀征伐での失敗から、軍事関連の評価は抑えめになっていると言うことですね。ですが政治はかなり高いのですね。
一時的にとは言え、司馬懿を失脚状態に追い込んでいるからな、またそれ以外にもいくつか気になる逸話が残っているようだな。
政治
さて、政治に関してもそこまで多くの記述はないが、それでも司馬懿の追い落とし以外にいくつか気になる部分はあるようじゃな。
曹爽は若い頃皇室の一族として、謹厳かつ重厚であったために、東宮にいた明帝から大変寵愛された。
~中略~
最初、曹爽は司馬宣王(司馬懿)が年齢功績全て上だったことから、常に彼に父のように仕え、専断で事を行おうとしなかった。(『曹真伝』)
この辺りはあちこちで語られていることですよね。ですが、司馬懿を追い落とした後は傲慢になってしまったんですよね。
曹爽殿に関しては大体ここで話が終わっているからな。それではお主の師匠が見つけた他の情報も見ていくとしよう。
正始元年(240年)、当時大将軍の曹爽が権力を掌握し、何晏・鄧颺らを信任した。王粛が大尉の蒋済、司農の桓範と議論している時、当時の政治が問題にされた。
王粛はきっとなって言った。
「こいつら(何晏ら)は弘恭・石顕(漢元帝の寵臣・宦官、他の臣下を追い落とし自殺させたり処刑する等して、宦官の支配権を確立した人物達)の仲間です。これ以上説明の要がありますか。」
曹爽はそれを聞いて何晏らを戒めた。
「ともに慎重であらねばならぬぞ。公卿(高官)どもは諸君を前代の悪人に比べているのだぞ。」(『王朗伝』)
確かに、単に持ち上げられて浮かれているだけ、ではなさそうですね。
謹厳で重厚、と言うのはこの辺りの発言にも拠っているのであろうな。また更に言うなら、賈充や裴秀、王沈と言った、名声の高い人物なんかも曹爽殿が登用しているのだ。裴秀は以前紹介した裴茂の孫であり、王粛は王朗の子に当たる人物だな。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
簡単解説
こうやって見ると天舞三国志が師匠の評価と近い感じがしますね。
天舞三国志も司馬懿を追い落とした手腕を評価して、政治面を高くしているのであろう。それにしても鄭問三国志の評価は謎だな・・・。
蜀征伐をするため、大軍を率いたことがあるからかのう?この辺りはワシもちと分からんかったんじゃよ。さて、曹爽に関してはもう少し情報を補完したいことがあるので、もう少し続けてみようかのう。
よし、それでは今日のところは帰るとするか、次もまたよろしく頼む。
張郃さんお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。