三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹爽(そうそう) 字:昭伯(?~249)その3

さて、今回も曹爽の続き、3回目じゃな。今回はちょっと変わった部分から彼の話を見ていこうと思うんじゃ。それでは早速見ていくとしようかのう。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹爽の逸話の続きじゃな。今回は史料を整理していく上で、ちょっと意外なところからの評論が見えてくるんじゃよ。

変わったところと言うと・・・蜀ではなく、まずはあのお方の話になるのか。  

む、さすが張郃殿、察しが早いですのう

あのー、置いてけぼりの人間がここに一人いるんですが・・・。

まあまあ、すぐに詳細は分かる故、もう少し待つんじゃ。それでは曹爽についての続き見ていくとしようかのう

人物紹介

裴秀

裴秀は大将軍の曹爽によって招聘された。父を失い喪が明けると、財産を兄弟たちに譲った。

二十五歳の時、黄門侍郎に昇進した。曹爽が処刑されると、元配下の役人であったことから免職になった。(『裴潜伝』裴注『文章叙録』)

裴秀の一族って確か子孫に裴松之が出てきているんですよね。

裴秀の直系ではないが、確か裴潜殿の弟から裴松之の坊やには確か繋がっているんだったな。 

辛敞

さて、ここからはちょっと変わった方向からの評論じゃ。直接曹爽と関係しているのは辛敞なんじゃが、ここでキーになるのは辛敞の姉の辛憲英なんじゃな。

辛毗の息子の辛敞は曹爽の参軍となった。司馬宣王は曹爽を殺そうとして曹爽が場外に出たのに付け込み、城門を閉じた。

~中略~

場内にいた辛敞は懸念を抱き、姉の辛憲英に尋ねた。

辛敞「天子様が外におわすのに、太傅(司馬懿)は城門を閉じました。人は国家に不利益をもたらそうとしております。事柄としてかようなことをしでかしても良いものでしょうか。」

憲英「天下には理解できないことがございます。しかし私の考えで推し量りますと、太傅はほとんどそうせざるを得なかったのです。

明皇帝様は崩御あそばされる前に、太傅の腕を取って後のことをお預けなさいました。その御言葉はまだ朝臣の耳に残っております。

それに曹爽は太傅とご一緒に委託の任を受けられましたが、権力を独り占めし、行動はそのため驕り高ぶり、王室に対しては不忠、人道においては正しくありません。

今度のことでは曹爽が処刑されるだけのことでしょう。」

辛敞「それでは事は成功しますか?」

憲英「まずは成功しないはずはありません。曹爽の才能では太傅の相手にはなれません。」

辛敞「それならば私は城を出ない方がよろしいでしょうか。」

憲英「どうして城を出ないで良いものですか。職務は人の大義です。およそ人は危難の中にあってもなお、それを気にかけるものです。人の家来となりながら、その仕事を放棄するのは不吉です。いけません。それにそのお方のために死に、そのお方のために頑張るのが、親近せられた者のつとめです。皆様のお供をするしかありません。」

辛敞はかくて城を出た。宣王は果たして曹爽を殺した。事件が落ち着いた後、辛敞は嘆息して言った。

辛敞「わしは姉に相談しなかったなら、危うく道義に外れるところだったわい。」(『辛毗伝』『世語』)

辛憲英って確か優れた才知を示した女性ですよね。

そうだ、同時代でも上の陽にいくつかの逸話を残した、状況判断力と決断力に富んだ女性だ。弟に対して、迷わず主のために死ね、と言える女性はなかなかいるまい。 

しかもそれって恐らくそうすることが、辛敞を救うことになると理解していた、と言うことですよね。

結局曹爽の下に駆け付けなければ、生き残れたとしても裏切り者としての誹りは免れなかったであろうからな。死地に飛び込むのが一番の良策と冷静に判断していたのであろう。 

それにしてもやはり、曹爽の器量では到底司馬懿には敵わない、と言う評論なのですね。

それは仕方あるまい。何より踏んできた場数が違い過ぎる。途中で司馬懿を敵に回した時点で曹爽殿の命運は決まってしまったのだ。 

王基

大将軍の曹爽が要請して王基を従事中郎とし、外に出て安豊太守となった。

~中略~

王基は平民から起用されて河南尹となったが、拝命する前に曹爽が処刑された。王基は曹爽の属官であったため、先例に倣って免職になった。(『王基伝』)

確か王基って結構な人物だったように思いますが、如何ですか?

魏後期に活躍した武将であり政治家だからな。彼ですら最初に引き立てたのは曹爽殿だったのは興味深い話だな。 

文欽

文欽は曹爽と同じ村の出身であった。(『毌丘倹伝』)

王淩が文欽の貪欲残忍さを取り上げ、国境地帯を鎮撫させるのは不適当であると上奏し、免職にして罪を断じてもらいたいと要請した。そのため文欽は召し還された。

曹爽は文欽と同郷であったので、手厚く彼を待遇してやり、文欽の事件を取り調べず、再び盧江へ帰してやった上、冠軍将軍の号を加え、前以上の高い身分と恩寵を与えた。(『毌丘倹伝』裴注『魏書』)

文欽って確か息子の文鴦が猛将として演義でも活躍してた人物ですよね。

その通りだ。文鴦は史実でもその勇猛さは有名で、後に晋の時代では異民族討伐で活躍しているな。 

父の文欽も結構な猛将だったのでしょうか。

文欽も、更に言うと文欽の父も勇猛な人物として有名だったな。 

さて、曹爽については更にもうちょっと違った方面からの逸話があるんじゃよ。次はそれを紹介して、終わりとしようかのう。それでは次もまたご覧くだされい。

 

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