三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹叡(そうえい) 字:元仲(204~239)その4

さて、今回は魏の曹叡最後の時の混乱と、そこから個人的な考察を行ってみようと思うんじゃよ。

 

どうも、ほぼ一週間ぶりじゃな。さて、今回は曹叡の最後について、ちょっと考察していこうと思うんじゃよ

どうも、張郃だ。どうやら休み中も結構バタバタしておったようだな。明帝の最後について、今までの詔勅の内容などを考えると色々首をかしげる部分があるのは確かだな。 

張郃さんも気づいていらっしゃるのですね)それは皇族を決して冷遇しようとしてはいない、と言うことと関係があると言うことですか。

そうだな、その辺りが今回の考察のキモとなるのであろう。 

そうじゃ、安易に陰謀論に足を踏み込みたいわけではないんじゃが、ちょっと思う所はあるので、材料を出しておこうと思うんじゃよ。

人物紹介 

後事を託そうとした人物

魏志『明帝紀』の裴松之注『漢晋春秋』によると明帝は燕王宇を大将軍に任命し、領軍将軍の夏侯献、武衛将軍の曹爽、屯綺校尉の曹肇、驍騎将軍の秦朗らと並んで、政治を補佐させた、とあるんじゃよ。

さて、弟子よ、これを見て何か気が付くことはあるか?

そうですねえ、曹氏、夏侯氏と親族が多いように思いますが、秦朗は違いますよね。

寝ぼけたのか?秦朗の母親は曹操の夫人となっており、秦朗は親族同然に育てられているぞ。

そういえば、じゃあここに並んでいるのはほとんど親族のみ、と言うことですよね。

そうだ、そして本来明帝が後事を託したかったのも彼等親族であった、と思うのだ。

実際に後事を託した人物

さて、曹叡が親族の力を頼りにしようとしたのは確かなんじゃが、結局その立場を担ったのは曹爽と司馬懿となったんじゃ。

これには劉放と孫資が暗躍しており、曹叡に曹宇らが無能であることを語り、彼らを罷免すること、司馬懿を参与させることを進言し、苦しくて詔勅が書けないと明帝が言うと、劉放がベッドの上にのぼり、明帝の手を取って無理やり詔勅を書かせ、これによって燕王宇らを罷免させたのだ。

事実だとすればとんでもない暴挙だと言える話だな・・・。

ここから、魏は皇族主導から有力臣下達の貴族政治に移行していくわけですか。

まだ曹爽や夏侯玄が頑張っている間はかろうじて均衡が取られていたとは思うんじゃがな、政変によって彼らが失われた後は雪崩を打つように皇帝権力が弱まっていったんじゃよ。

元々劉放と孫資は曹宇ら親族連中と仲が悪く、彼らが権力を握ると危うい立場であった。その危機的状況を脱するため、いわば保身のために司馬懿を政権に参入させたのであろうが、後々あのような事態になることまで・・・読んでいたのかな。

ちょっと思ったのですが・・・もしかして曹叡さんが亡くなったのってただの病気だったのでしょうか?

そこまでは分からんのう。ただ『漢晋春秋』に載っている劉放らの行動はひどい話じゃが、『漢晋春秋』自体の信憑性に色々疑問符がついているからのう。 

そうだな、明帝の死に乗じて、と言う部分はあるかもしれないが、さすがに暗殺までの話になると、飛躍しすぎであろうな。 

ただ、宮殿造営により民を疲弊させた、と言うのは詔勅内容などを見ると、腑に落ちない部分もあると思うのですか。

そうじゃな、曹叡が親族を登用して皇帝権力を強めようとしていたと考えると、次の晋の時代の人たちにとって、曹叡は余計なことをする悪の存在、と言うことで宮殿造営なども必要以上に悪く言われている可能性はあるのう。まあそこはまだ考察の余地あり、と言う感じで各々考えていけばよいんじゃなかろうか。

さて、そんなところで今回はここまでかのう。 

よし、それでは俺も帰るとするか。次もまたよろしく頼むぞ。 

張郃さん、お疲れさまでした。見に来られている皆さん、次もまたよろしくお願いいたしますね。

 

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