三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹髦(そうぼう) 字:彦士(241~260)その4

さて、今回は曹髦の逸話の続きじゃな。本当は今回で終わるつもりだったんじゃが、彼の最後についての情報が色々思うことがあったので、もう一度だけ続くことになりそうじゃな。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回曹髦の紹介の続きじゃな。本来は今回で終了のつもりであったんじゃが、もう1回続きそうじゃな。

史書の内容も、立場が違えば大きく変わることの好例だな。この点に関しては裴松之の坊やを誉めねばならんのう。  

そんなに違うのですね。史書だからと言って、常に正しいことを書いているわけではないのですね。

それはそうじゃ。裴松之の注釈で、違う内容がいくらでも出てきていることからも明らかじゃからな

人物紹介

高貴郷公の日常

帝はいつも中護軍の司馬望、侍中の王沈、散騎常侍の裴秀、黄門侍郎の鍾会らと東御殿でくつろいだ討論会を催し、同時に文学論を書き綴った。裴秀を儒林丈人、王沈を文籍先生と名付け、司馬望や鍾会にもそれぞれ呼び名が付けられていた。

帝はせっかちで招集する時には、速やかに到来することを望んだ。裴秀らは宮中の奥向きの官職に付いていたので、即刻出かけてくることができたが、司馬望は外部にいたため、特別に追鋒車(快速の馬車)と、虎賁の兵卒五名が支給されて、集会の度ごとに、司馬望はいつもその馬車を飛ばしてはせ参じたのであった。(『高貴郷公紀』裴注『晋諸侯賛』)

せっかちは遺伝なんですかね、確か曹操も結構短気だった、とありましたよね。

即断即決が曹丞相の持ち味であったからな。血は争えない、と言うことだな。

それにしても曹髦は学問好きなんですねえ。

他にも太学に行って、当代の学者たちに鋭い質問をして、タジタジにさせたほどだ。皇帝権力が確立されていた時代ならば、非常に優れた君主として、名を馳せたであろうがな・・・。  

高貴郷公の最後

甘露五年(260年)五月己丑の日(7日)高貴郷公が亡くなった。享年二十(『高貴郷公紀』)

いきなりすぎですね、あれ、でも史書に書かれているのはこれだけですか?

そう、高貴郷公の死の場面だけを切り取ると、これだけのことしか書いていない。そしてこの続きは・・・ひどい話だ。

太后の詔令

曹髦が亡くなった際に皇太后の詔令が下されるんじゃが、その内容は以下の通りであったんじゃよ。

「私は身の不徳によって、一族の不幸に巡り合ったため、かつて東海王の子髦を擁立して、明帝の後継者にした

彼が書状や文学を愛好しているのを見て、将来の完成が可能であると期待したのであるが、性情は荒々しく道に外れており、その傾向は月日の経過に連れてますます酷くなっていった。

私が度々叱責したところ、いっそう腹を立て怨みに思って、悪逆非道の言を捏造して私を誹謗した。その結果二つの宮殿(皇帝と皇太后の宮殿)の関係は断ち切れてしまった。

彼が口にした言葉は、とうてい聞くに堪えぬものであり、天も地も容認しないものである。私はすぐに内密で詔令を送り、彼では宗廟を維持していくことはできず、おそらく国家を転覆させてしまい、死んだあと亡き帝に合わせる顔がないと大将軍に告げた。

~後略~」(『高貴郷公紀』)

これが事実だとすると、酷い暴君、と言うことになりますよね。

もちろんせっかちで性急にことを運ぶきらいがあるが、さすがにこれが高貴郷公の真実の姿とは思うまい?

どう考えても、亡くなった曹髦に非があるように仕立て上げられているとしか思えませんからね。学問好きで鍾会らと討論をしている姿とのギャップが大きすぎます。

まあそうだな。さてそれでは曹髦の死の真実はどのようなものであったか、それを次に紹介して締めとしようか、と言うことで良いか?

うむ、それで次もよろしくお願いしますじゃ。それでは次もまたよろしくのう。

 

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