三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

王広(おうこう) 字:公淵(?~251)

さて、今回は王広の紹介じゃな。彼は王淩の恐らく長男であり、優れた人物として当時でも有名だったんじゃよ。じゃが彼も父の罪に連座する形で処刑されてしまうんじゃな。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は王広の紹介じゃな。彼は王淩の息子として、当時名声の高かった人物なんじゃよ。

先日の王金虎の時にも少し名前が出ていましたね。父の王淩も優秀でしたから、その資質を受け継いでいたのでしょうか。

史書を読む印象からすると、どちらかと言うと王允殿に近い資質を感じたな。 

そんな王広について見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 王広(20歳)  85 90 60 110
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓ ↓↓
 王広(45歳)  117 123 90 145

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

王広は記述は少ないながらも、父以上と言われただけの見識を持ち合わせていたと思わせるものがあるんじゃよ。

王淩は令弧愚と天子廃立計画を練っている時、この件について、舎人の労精を洛陽にまでやり、子の王広に話をさせた。王広は言った。

「天子の廃立は大事件です。真っ先に災難を受ける羽目にならないように。」(『王淩伝』)

これにはもう少し詳細の内容が載っており、裴松之は作者の偽作・創作ではないか、と疑っているが、王広の判断力の高さを示す良い逸話であるから、ここにも載せるとしよう。

「およそ、大事を行う場合、人間の心情を基礎に置かなければなりません。

今、曹爽は驕慢・奢侈によって民心を失っており、配下の何晏・丁謐・畢軌・桓範・鄧颺はいずれもかねてから人望のある人物ですが、皆世間に張り合うことしか考えておりません。

その上朝廷の典則を改変し、政令は度々変更されております。目的は高邁なのでしょうが、実情と合わないため、下に受け入れられず、民衆は古い政令に馴れており、従おうと致しません。

従って四海を傾ける権勢を持ち、天下を振動させる名声を持ちながら、同じ日に処刑され、名士の半分が消え去っても民衆は平然として、彼らに哀悼を捧げる者もおりませんでした。民心を失っていたからです。

今、司馬懿はその内心は予測しがたいとは言え、まだ反逆の事がある訳ではありません。しかも賢人・能者を抜擢して採用し、自分より優れた人物を広く起用し、先代の政令を良く整え、民心の要求に沿っております。

曹爽が行った悪政を、彼は全て必ず改正し、朝夕怠ることなく、人民をいたわることを先事としております。父子兄弟共に軍権を掌握し、簡単には滅ぼせません。」(『王淩伝』裴注『魏氏春秋』)

随分長いですが、どこまで信用できるのでしょうか? 

多分参考にしてよいのは最初と最後の一文ぐらいであろう。途中の曹爽殿の悪政はその内容がかつて前漢から皇帝位を簒奪した王莽がやったことをそのままなぞったような記述で具体性が見当たらない。

しかも史書が正しいなら、この頃の司馬懿は曹爽殿に追い落とされ、半ば隠居状態のはず。どうして上で書いているようなことができる?結果が分かっている未来の人間が書いた文章にしか見えないな。

とは言え、おそらくは王広はこういう人物だったのだ、と言いたい気持ちも分からんではない、それも載せておくとしよう。

王広は学業優れ高い志を持っており、死んだ時には四十余歳であった。(『王淩伝』)

王広は字を公淵と言う。弟の飛梟と金虎は共に人並みはずれた才能・武勇を持っていた。太傅(司馬懿)はある時閑談の折に蒋済に(彼らのことを)質問した。蔣済は

「王淩は文武兼ね備え、当今並ぶ者のない人ですが、広らの志と力は父よりも優れたものがあります。」

と言ったが、退出するとその言葉を悔やんで、親しい人に

「わしのこの言葉は、人の一門を滅ぼすことになるな。」

ともらした。(『王淩伝』裴注『魏氏春秋』)

何となくわかりました。王淩の叔父の王允董卓暗殺を慎重に計画して、成功させましたよね。それと比べると王淩の場合は少し慎重さに欠ける、と王広は感じていたのではありませんか? 

あくまでも予測でしかないが、自分はそう感じた。それ故に王広殿の方が王允殿に近いのではないか、と上で言ったのだ。 

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 王広  4 2 3 8 6 8

 

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簡単解説

天舞三国志には出ていますが、評価が師匠にちょっと近いですね。

魅力や政治の高さに比べると知謀は少し低め、と言う辺りは確かに共通だな。  

あと武勇面も王淩の息子、と言うことで、ワシは少し色を付けておいたんじゃよ。さて、それでは今回はここまでじゃな。

よし、それでは俺も帰るとするか。  

張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。