今回紹介するのは曹林じゃな。彼は曹操の息子の一人じゃな。彼はどんな記録が残っているのか、見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹林の紹介じゃな。曹操の息子にして、曹緯の父でもあるんじゃな。
今見ると曹緯って名前だけの割には少し能力が高いですね。
これは、『嵆氏譜』に嵆康の妻は曹林の子の娘となっていることとも関係がありそうだな。
そうじゃな。わざわざ曹林の孫娘の名が出てくる辺り、彼の一族にはそれに見合うものがある、と言う判断じゃな。
能力評価
さて、それでは彼の時代の記録について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
沛の穆王曹林は、建安十六年(211年)、饒陽侯に取り立てられた。
二十二年(217年)譙に国替えされた。
黄初二年(221年)、公に爵位が昇進し、、三年(222年)譙王となった。
五年(224年)、改めて譙県王とされ、七年(226年)、鄄城に国替えされ、太和六年(232年)、沛に国替えされた。
景初・正元・景元の間に何度も加増され、前と合わせて四千七百戸となった。(『沛穆王林伝』)
曹緯んところでも書いていますが結構長命なようですね。
魏の終わりまで生を全うしていることから、宗室の中では長老格だったのかもしれないな。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
簡単解説
曹緯もですが、曹林もまたそこそこの評価なのですね。
長命と言うことはそれだけ、経験と知識を得る、と言うことにも繋がるからな。
そう言うことじゃな。実績が残っていないなどの記録が無いのは残念じゃ。さて、そんなところで、曹林の紹介も終わりじゃな。
よし、それでは俺も帰るぞ、次もよろしくな。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。