今回紹介するのは曹邕じゃな。彼は文帝(曹丕)の息子の一人じゃな。没年が229年と言うことは、彼も若くして亡くなったようじゃのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹邕の紹介じゃな。彼は曹丕の息子の一人なんじゃよ。
当たり前の話ですが、知らない人物が多いですねえ。
まあ、曹植殿達のように優れた実績がなければ仕方がないであろうな。自分のところの息子なども名前ぐらいしか出てこないからな。
そうじゃな、それでは早速曹邕について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは彼の時代の記録について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
それでは魏志『邯鄲懐王邕伝』に載っている曹邕の情報を見ていくとしようかのう。
邯鄲の懐王曹邕は黄初二年(221年)、淮南公に取り立てられ、九江郡を領国とした。
三年(222年)昇進して淮南王となり、四年(223年)陳に、六年(225年)邯鄲に国替えさせられた。
太和三年(229年)、逝去した。(『邯鄲懐王邕伝』)
相変わらず文帝の時代の皇族は、目まぐるしく領国を移動しているのですね。
皇族冷遇の時代であったからな。それにしても記録はこれだけか、評価が難しいな。
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簡単解説
ちょっと思ったのですが、知謀と政治が少し高めなのは、名前が関係しているかもしれないですね。
ふむ、邕と言う名前でパッと思いつくのは蔡邕殿だな。なるほど、彼の学者としての才にあやかり、知謀と政治の方を高めにした、と言う判断か。
そう言うことじゃな。そう言う期待を込めて付けた名前、と言うのもあるじゃろうからな。さてこれで曹邕の紹介は終わりじゃな。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。