さて、今回は曹玹の紹介じゃな。曹操の息子の一人なんじゃが、比較的若くして亡くなったことから、後継ぎはいなかったようじゃな。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹玹の紹介じゃ。曹操の息子の一人じゃな。
どうも張郃だ。曹玹は曹操の息子だがかなり若くして亡くなっているようだな。
曹京と同様、未成年の内に亡くなった感じなんでしょうか。
曹玹は「済陽懐王」、曹京は「霊殤公子」と呼称に差があり、曹玹は早くして亡くなっているが、その後を曹林の息子の曹賛更に弟の曹壱に継がせている。一方で曹京には彼の後を継いだ人物の名前は残っていない。
成人に達しているか、そうでないかが違いに思えるのですが違うのでしょうか?
いや、曹丞相の息子の曹沖殿は十三歳と成人前に亡くなっているが、彼は王位を追贈され、後継ぎも取っている。曹玹と曹京の違いは、考えるに母親の位の問題ではないかな。
そう言われると、曹沖や曹玹の母親はどちらも夫人と高位である一方、曹棘や曹京の母親は姫の位に留まっている。もちろん母親が姫でも曹彪のように王位についた人物もいるが、そこは成人しているか否かの差と言うことであろうのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
魏志『済陽懐王玹伝』に次のように書かれているのみなんじゃ。
済陽の懐王曹玹は建安十八年(211年)、西郷侯に取り立てられた。
早死にして、子がなかった。二十年(215年)沛王曹林の子の曹賛に曹玹の爵位と領国を継がせた。
この情報によると曹玹は211年から215年の間に亡くなっていると言うことだな。
生まれがいつかは分かりませんが、少なくとも曹丕と同年代ぐらいでなければ成人前に亡くなった、と言うことになりますね。
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簡単解説
確かに亡くなった年を見ると、成人前に亡くなっている可能性が高いですから、最初に言われていたことの信憑性は高そうですね。
評価が全体的に抑えめなのも、成人前に亡くなった、となれば致し方ない所か。
そうじゃな。この辺りは基本逸話がなければ抑えめになるからのう。さて、それでは今回はここまでで終わるとしようかのう。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。