さて、今回紹介する人物は孫奐じゃな。彼は孫静の息子の一人、孫静は孫堅の末の弟に当たる訳なので、孫権とは日本で言う従兄弟の関係じゃな。さて、この孫奐はいったいどんな人物か、見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は孫奐の紹介じゃな。知名度は低いかもしれんが、実はかなり有能な人物っぽいんじゃな。
私は全然知らない方ですね。それほど優秀ですか?
史書の記録を見る限り、孫一族の屋台骨を支えた一人であるのは間違いないな。
うむ、それでは実際、孫奐の実績について、早速見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率
さて、孫奐の記録じゃが、これは宗室伝の孫静のところに記録が多く残っているようじゃな。
孫奐は字を季明と言う。
兄の孫皎が死去した後、代わってその配下の軍勢を指揮し、揚武中郎将の官で以て江夏太守の職務を兼ねた。
~中略~
黄武五年(226年)、孫権が石陽を攻めた時、孫奐はその地の太守であることから、配下の将軍の鮮于丹に命じ、五千人を率いて前もって淮水流域への通路を遮断させると、自ら呉碩や張梁ら五千人を率いて先鋒となり、高城を降し、三人の将軍を捕えた。
凱旋することになると、孫権は詔を下して全軍に整列するように命じ、自らは馬車に乗ってそれらの軍の前を通って(閲兵したが)、孫奐の軍の隊伍がきちんと整っているのを見て、感嘆して言った。
「元々彼がのろまで気の利かぬことを心配していたのだが、今見れば軍をきちんと治めていて、武将たちの中でもあれほどにできる者は少ない。私は心配することもないのだ。」
孫奐は揚武将軍に任ぜられ、沙羨(さい)侯に封じられた。(『孫静伝』)
実績があるのに、結構孫権は酷いこと言っていませんか。
若い頃の彼はそう見えた、と言うことなのだろう。ただ龐統のような例もあるし、実際に語ってみなければわからぬ部分と言うのがあるのは確かだろうな。
知謀
孫奐は、当意即妙の受け答えはできなかったが、職務はてきぱきとこなし、兵士たちも民衆たちも彼を称賛した。(『孫静伝』)
なるほど、頭の回転が速く、素早く受け答えをするタイプの人物ではなかった、と言うことですね。
孫権の印象もあながち外れてはいない、と言うことだな。
ただ、どちらかと言えば孫奐は、一つの物ごとを深く掘り下げていく人物だったように思えるな。
政治
孫奐も(兄の孫皎同様)学者たちを好み、兄の場合と同様に彼もまた部曲(配下の私兵)の子弟達に命じて学問を受けさせ、(そうした中から)後に朝廷に出て仕えるようになった者が数十人も出た。(『孫静伝』)
素早い受け答えに多少難がありますが、それ以外はほぼ文句なしの評価じゃないですか。
それゆえの高評価であろうな、知謀以外はすべて最終的に100以上となる。非常に優秀な人物と言えよう。
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簡単解説
三国志14の評価も決して低くはないんでしょうが、なんだかちょっとモヤモヤした感じになりますね。
三国志14は1000人ほどの武将が登録されているが、裏を返せばその中で能力を割り振らないといけないからな。どうしても割を食う武将は出てくるからな。
ただ、一つ間違いないのは、軍人としても政治家としても評価できる人物、と言うことじゃな。さて、孫奐についての紹介はここまでじゃな。
よし、それでは自分も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。