さて、今回は傅睿のところで少し語られておった郝温じゃな。
字、生没年は不明じゃが、没年は恐らく215年じゃ。これは後で簡単に解説するとしようかの。代郡の大吏となっておる。
彼はどんな人物じゃったのか、簡単に説明していこうかの。
人物紹介
まず、大吏と言うのが何なのか、少し気になって調べてみたが、具体的な官職ではない感じじゃの。高官とかそんな感じの意味じゃ。代郡の高官と言うような意味であろうかのう。つまり現地の有力者であった、と言うことじゃろうな。
彼らはかなり単于と深く結びついておったようで、代々の代郡太守も手を出せなかったとある。かなり根が深かったんじゃろうなあ。
さて、実際何時ぐらいからと言うのは良く分からんが、いつまでつまり没年はおよそ分かっておる。
裴潜が代郡に赴いて彼等を処刑し、3年間太守の役目を果たしたんじゃ。そして裴潜が中央に召還されたんじゃが、彼は民心がまだ安定したとは言えないからすぐに反乱が起きるだろう、と言っておったんじゃ。
実際数十日後に反乱が起き、この時に曹操の息子の曹彰が討伐に向かっておるのじゃが、これが218年と分かっておる。
逆算すれば郝温達が処刑されたのは215年頃と言うことになるじゃろうな。この時期50前後と考えると191年頃は20台半ばと言うことじゃから、191年頃に配下におったとしてもおかしくはないかのう。まあ最初は普通の官僚としてやっておったのかもしれんが、この辺りは分からんのう。ちなみに比較的近くの并州太原郡出身者で郝昭と言う魏の名将がおるんじゃ。同姓じゃが姻戚関係までは分からんのう。
さて紹介はこれぐらいじゃな、続けて能力評価に行くぞい。今回もワシ評価のみじゃな。
能力評価
郝温は長年烏丸と結び付き、通じていたことから、交渉能力に優れていると考え、知謀を高めとした。他は評価のしようがないので平均的な能力じゃな。
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雑談ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は郝温じゃな。代郡混乱の元凶の一人じゃな。
そんなに荒れていたんでしょうか?
そうじゃなあ、この時裴潜が取り調べ、処刑したのは10数人に及んだそうじゃ。
しかも裴潜が中央に戻った後に発生した反乱で、曹操の息子の曹彰が討伐に赴いておるんじゃが、なかなか苦戦したらしいからのう。
ちなみに曹彰は後期を代表する武勇に優れた猛将でのう。しかもこの時は田豫の助力も受けて共に戦っているが、それでも結構苦戦したんじゃよ。
軍事に優れた曹彰と田豫は計略に優れているんでしたっけ?2人が揃ってても苦戦した、と考えると侮れないですね。
まあそう考えるとかなり根が深かったんじゃな、とは思えるのう。郝昭との関係も気になるが、こればかりは記録が無いと分からんからのう。さて今日はここまでじゃな。また次もよろしく頼むぞい。
次も見てくださいね、それではまた!