さて、今回から新しい勢力じゃな。趙郡で県令を務めておった王雋じゃ。字や生没年は不明じゃ。
彼については正史本文にも記録が残っておらんのじゃよ。彼は何をやって記録が残ったのか、その辺りを見ていくとしよう。
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は新しい勢力、王雋の紹介じゃな。
王姓は結構多いですよね。どこかの有力人物と繋がりがあるんでしょうか。
うーむ、マイナー故にそこはあまり期待せん方がいいと思うぞい。ただ繋がりを感じさせる人物はおるぞい。
マイナーな人物なのに珍しいですね。
うむ、それでは彼の人物について紹介していくぞい。
人物紹介
さて、王雋については一ヶ所、それも本文ではないところじゃな。
『王朗集』にて王朗が趙郡の張登について述べた上奏文があり、そこに王雋のことが書かれておるのじゃ。それによると
「昔、(張登が)本県の主簿であった時に黒山の賊が郡を包囲した事件に会いました。張登は県令の王雋と共に役人・兵士72人を連れて直ちに救援に駆け付け、賊と交戦しました。
役人・兵士は散り散りになって逃走し、王雋はほとんど殺されるところであったが、張登は賊の一人と格闘して、王雋の命を救いました。」と書かれているんじゃよ。
恐らく黒山賊じゃからソコソコ数はおったと思うんじゃが、そこに突っ込むとはかなり無茶じゃのう。
さて、べたな話じゃが、王雋と関係のある人物は王朗ではなかろうか。と言うのもこのエピソードは正史本文ではなく、注釈の『王朗集』に載っておる話じゃ。普通史書では県令クラスの人物が取り上げられることはあまりないが、『王朗集』のような王朗一族の家伝の場合、一族に関係するより細かな事績が書かれることになるじゃろう。
王雋が王朗と近親関係であり、その王雋と関係がある人物として張登の情報が王朗に伝わり、王朗は上奏した、と考えることはできるのではなかろうか。
まあ、あくまでも予想でしかないから間違っているかもしれんがのう。
さて、これで王雋の出番は終わりじゃ。上記のエピソードの正確な時期も、王雋の死亡時期もはっきりしないんじゃよ。まあ仕方ないかのう。
さて続けて王雋の能力評価といこうかのう。今回はワシと天舞さんの評価となるぞい。
能力評価
王雋は少数の兵で黒山賊に立ち向かうが、あまりにも率いる兵が少ないために蹴散らされて、死の危機に瀕しておる。ちと向う見ず過ぎる感じがあるので知謀は抑えめじゃ。県令であったことから政治は多少高めじゃな。
軍事面も張登によって命を助けられていることからそんなに高い評価はできんのう。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
雑談ぢゃ
さて、今回は王雋の能力評価じゃな。
天舞さんも師匠もどちらもややきつめの評価ですね。
そうじゃな。県令から後の記録が何もないと言うことからあまり高い評価にはできんかったのう。
そう言えば王朗ってあれですよね。孔明と論戦して負けて死亡した人ですよね。
おお、演義だと確かそうじゃったかのう。王朗は正史と演義ではかなりイメージが違う人物の一人じゃな。
そうなんですか、演義だとやられキャラって感じですからね。
うむ、正史では彼は政治家としては最高位である三公にまで昇り、また魏を代表し、一時代を築いた学者でもある。
諸葛亮とは分野が違うから一概に比較はできんが、学者としては並ぶものがそうはいないクラスの人物じゃな。
うーん、やっぱり魏ってすごいんですね。王朗の紹介の時に詳細はまた教えてくださいね。
うむ、まあ王雋がどこまで王朗と関係があるのかは不明じゃがな。
まあ1800年以上前の人達ですから、情報が無いのも仕方ないですね。
うむ、さて今回はここまでじゃな。次もまたよろしく頼むぞい。
次も見てくださいね、それではまたです。