さて、今回紹介する人物は何曼じゃな。字や生没年は不明じゃ。
彼も何儀同様元々黄巾賊だったんじゃ。
さて、彼についても見ていくとしようかのう。
さて、今回は何曼じゃな。演義じゃと何じゃったかな、何とか夜叉何曼とか言っておったかのう。
あ、いましたね、確か曹操軍と戦って一騎打ちでやられた人じゃなかったでしたっけ。
うむ、彼はある意味演義でやられ役とは言え、夜叉と言う異名を与えられたおいしい役を得たと言えるかもしれんのう。
とは言え、正史は違うんですよね。
そうじゃな、あくまでも演義で与えられた役割じゃからな。それでは彼の紹介と行こうかの。
よろしくお願いします。
人物紹介
さて何曼じゃが、基本的には何儀と記述する内容は一緒じゃな。彼は汝南・潁川の黄巾の賊徒だったんじゃ。
そして袁術が豫州に流れ着いた頃、当初は袁術に味方しておった、と言うんじゃな。
そして196年の二月、曹操は豫州方面に軍を進め、彼らを撃破するんじゃ。
何人かの武将を斬り、何儀はこの時、軍勢ごと全て降伏するんじゃな。
じゃが一緒に行動しておった何曼がどうなったかは史書には書かれておらんのじゃ。
一応『三国志全人名事典』を見ると、この時の戦いに敗れて降伏した、と書いてあるんじゃが、他の史料を見てもそれを裏付ける記述が見当たらんので、不明としておくぞい。
ともあれ、曹操に攻められ敗れたと言う記述を最後に、何曼の記録は途絶えておるので、その後を知りようがないのう。さて、何曼の紹介はここまでじゃな、続けて能力評価と行くぞい。今回は・・・ワシだけの評価になるんじゃな。
能力評価
何曼の能力じゃが、実はこれはもう完全に演義のイメージを引きずっておるのう。本来ならもう少し統率の高い武将じゃと思うんじゃが、せっかく演義で夜叉と言うかっこいい異名を持っておったが故の遊び心じゃ、と言うことで勘弁してくだされ。
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雑談ぢゃ
さて、何曼の能力評価じゃな。上でも書いておるが、少し演義のイメージを入れているんじゃ、すまんのう。
まあ史料がないから仕方ないと言えば仕方ないですね。それにしても初期でギリギリ軍事が100を超えていないんですね。
そうじゃな、これは演義で一騎打ちを曹洪と行って斬られていることからじゃな。
曹洪は初期で軍事は・・・あ、なるほど105あるんですね。
うむ、何曼の軍事を100とか余り曹洪に接近させすぎると、曹洪はもっと苦戦することになるじゃろうから、強いけど差はある、と言うぐらいのイメージじゃな。
正史とは全然関係ないのに、そう言う変なところにこだわるのは相変わらずですねw
まぁ逆にこれぐらいのことをしないと、数値なんぞ決められんからのう。さて、そんなところで何曼の紹介は終了じゃ。良ければ次も見てくだされ。
紹介ありがとうございました。もし他にい興味ある人物いたら下から調べてみてくださいね。