さて、于禁の紹介2回目じゃな。
ここでは于禁の特徴を示すようなエピソードとその最後について記述していくとしようかのう。可能なら能力評価まで行くぞい。
人物紹介
さて、今回は于禁の紹介2回目じゃな。
張郃の時もそうでしたが、2回で終われそうなんでしょうか?
う、うむ、多分于禁は2回で終わる予定じゃ。今回は于禁の特徴を表すエピソードと最後、それと能力評価に行くぞい。
于禁の軍統制について
軍統制の方法
于禁の軍を保持する態度は青州兵の時のように厳格できっちりしており、賊の財物を手に入れても個人の懐に入れることはなかった、と言うんじゃ。このため賞賜は特に手厚かったようじゃな。
じゃがその統治方法は法によって統御したからあまり兵士や民衆の心は掴めなかった、とある。しかしこれは恐らく、于禁の最後がそうであったことの原因をこういう部分に求めようとした結果の書き方に思えるのう。酷吏でもない限りこの手の人物は畏怖されても嫌われる、と言うのとは、また少し違うと思うんじゃよ。
旧友昌豨との別れ
于禁には昌豨と言う友人がいたんじゃ。じゃが一度曹操に対して反乱を起こしたんじゃ。討伐に張遼と夏侯淵が向かったが、そこで昌豨は一旦張遼に降伏したんじゃよ。じゃがその後再び謀反を起こしたんじゃ。この時曹操は、于禁を派遣してこれを攻撃させたんじゃが、なかなか攻め落とせないんでいたんじゃ。そこで曹操は夏侯淵も派遣して于禁と協力させたんじゃ。こうして昌豨を攻撃し、彼の十余りの屯営を攻め下したんじゃ。そして昌豨は旧知の間柄であった于禁のもとに再び出頭して降伏したんじゃよ。
諸将は皆、昌豨が降伏したのだから曹操の下に送るべき、と主張したが、于禁は次のように言ったんじゃ。「諸君は公の常令を知らぬのか。包囲されてのちに降伏した者は赦さないとある。そもそも法律を奉じ命令を実行するのは上に仕えるものの守るべき節義である。昌豨は旧友ではあるが、私は節義を失う訳にはいかぬ。」
そして自身が昌豨の下に出向いて別れを告げ、涙を流しながら彼を斬ったんじゃ。この話を聞いた曹操は感歎して「昌豨が降伏する時、わしの下に来ずに于禁を頼ったのは運命ではなかろうか。」と言い、いよいよ于禁を重んじたんじゃ。
裴松之はこの件に対して「旧友のために万一の幸運を期待することも全くせず、殺害を好む心のままにふるまった。」と批判しておるがわしはそうは思わんのう。殺害を好む心のままにふるまうような人物が、わざわざ本人の下に直接出向いて説明をし、旧友のために涙を流すじゃろうか。葛藤もなく自分の好みが人を斬ることだから、で旧友を殺害などするはずがなかろう。
もしこれを批判するのであれば、馬謖を処刑した諸葛亮も批判すべきであるが(罪の比較であれば馬謖よりも、二度も反乱した昌豨の方が遥かに罪が重いのは自明の理であろう)そっちは一切批判しておらん。裴松之の評は参考になるがダブスタもある、と言うことじゃな。
関羽討伐軍
219年頃じゃ。この頃于禁は五将軍の中でも唯一節と鉞を与えられた記録がある将軍なんじゃ。 節は軍法に違反した将兵を独断で処分することができる権限で、鉞は独自に軍を動かす権限を持った、と言うことじゃな。これにより于禁は七軍を率いて関羽討伐に向かうんじゃよ。一軍3,200人と計算すると七軍は2万を超える大軍ということになるのう。この時期ここまでの軍を率いる権限は恐らく親族以外にはおらんかったと思うぞい。
ただ、この時漢水が氾濫し、于禁の陣地へ流れ込み、水没してしまったんじゃ。関羽は漢水を挟んで建っておる襄陽と樊城の連絡を断ち切るために水軍を用意しておったので、この氾濫の被害を受けんかったが、于禁はそういう訳にもいかんかった。どうしようもなくなった于禁は関羽に降伏したんじゃよ。一戦も交えずに降伏するしかなかった于禁の心中はいかほどのものであったかのう。
ただ、関羽もかつては曹操に降った身分じゃ。于禁の心中は察して丁重に扱ったと思われる。演義のように自分のことを棚に上げて于禁を侮蔑するようであれば、むしろワシはその方が関羽を軽蔑するぞい。
その後の于禁
その後関羽は徐晃に敗れ、また孫呉の急襲により荊州を取られ、関羽自身も処刑されてしまうんじゃ。江陵で獄に繋がれておった于禁は孫呉に救われるんじゃな。孫権は自分から于禁に会見を申し入れると大いに于禁のことを気に入ったようじゃ。
ある日孫権が馬で外出した時に于禁を招いて馬を並べて歩もうとしたんじゃが、虞翻と言う人物が怒鳴りつけて「降伏者のお前が何で我が君と馬首を並べようとするんだ。」と言い、鞭を打とうとしたんじゃ。孫権は大声をあげてそれを止めさせるんじゃ。
また後に孫権が楼船に群臣を集め酒宴を催した時のこと、于禁が故郷の音楽を聴いて涙を流すと、虞翻は「お前はそんな心にもないことをして許してもらおうとしているのか。」と言ったんじゃ。虞翻は優秀な軍師なんじゃが、こう言う人にきつく当たる部分が多く、しまいには孫権にもかみついて、不興を買うんじゃよ。この時も孫権は不機嫌そうにした、とあるのう。
『呉書』によると、後に孫権は魏との講和がまとまると于禁を魏へ送り返そうとしたんじゃ。虞翻はこれを諫めるんじゃ。「于禁は戦いに敗れて数万の軍勢を失いながら、捕虜にその身を落とし、節を守って死ぬこともできませんでした。北方で行われている軍の習いでは、于禁が戻ってきても定め通り処刑することはきっといたしますまい。彼を送り返しても何の損失にもならぬとは言え、罪人を放置したことにはなります。いっそここで彼を斬って全軍の者に示し、臣下でありながら忠節を貫くことのできぬ者の見せしめとするが良いでしょう。」孫権は聞き入れんかった。まあ当然じゃな。
于禁の帰還に当たって、呉の群臣が彼を見送ったんじゃが虞翻はそこでまた言うんじゃ。「お前は呉にしかるべき人がいないと考えてはいけない。たまたま私の意見が用いられなかっただけなのだ。」もう本当にこやつは・・・じゃが于禁自身は虞翻を高く買っており、魏に戻った後も彼のことを称賛した、とあるんじゃ。
しかし恐らく心労がたたったんじゃろう。魏に戻って程なくして于禁は亡くなったんじゃ。魏に戻った時、曹丕に辱めを受けて悶死した、とあるが、これは于禁が最期の戦いであのような事態になったことの、理由付けとして創作された内容に思えるのう。なぜなら、于禁が虞翻を称賛したことに対して、文帝は虞翻のための雄とを用意しておった、と『呉書』には書かれておる。憎み辱めを与えるような相手の意見を聞き入れるじゃろうか。もちろん『呉書』と言う書物の信ぴょう性も疑ってかかるべきじゃが。正史本編じゃから全てが正しい訳でもなく、あちこちで偏向的な記述はある訳じゃからな。劇的なエピソードはまず疑うのがワシのやり方じゃ。
さて、于禁の人物紹介はここまでじゃな、続いて能力評価と行くぞい。于禁は全作品に出ておるぞい。
能力評価
于禁は防衛戦での実績が目立ち、特に袁紹との戦いで出色の活躍を見せておるんじゃ。また記録にある限りでは唯一五将軍の中で節と鉞両方の権限を与えられておる。もし最後の敗戦がなければ于禁が五将軍筆頭になっておったと思えるぞい。当然于禁ほどの大軍を指揮したのは後年の張郃ぐらいしかおらず、このことから于禁は統率を最大値近くまで評価としておるんじゃ。
もちろん軍事も評価できるし、法に厳格で昌豨に対する処置などから吏僚としてもそれなりに優秀だったと考えられ、政治もそれなりに評価できると言えるじゃろう。じゃが知謀は劉備の策に夏侯惇を止めずに一緒に引っかかったことから少し抑え目じゃ。まあこれは少し知謀の高い副将を配置してやればすぐに解決する問題じゃな。
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雑談ぢゃ
さて、于禁の能力評価じゃな。
皆共通なのが統率や采配が武勇や武力より高い評価になっていますね。ただ師匠は突出して統率が高いですね。
そうじゃな。官渡前後で袁紹の攻撃をしのいだ手腕はもっと評価されても良いと思うんじゃがな。
しかしこの統率の高さは脅威になりますね。
そうじゃな、どんな勇猛な武将でも于禁相手に正面からぶつかってはいかんと思うぞい。やるなら奇襲部隊などのからめ手からじゃな。
幸い于禁自身はそこまで知謀が高くはないから、奇襲攻撃は効きそうですものね。
うむ、まあ多少知謀に優れた人物を配置すればすぐに補える程度じゃがな。
自軍で使用する場合はこの弱点を補えば最前線でバリバリ戦ってくれそうですね。
そうじゃな。知謀120~130ぐらいの武将がおれば十分じゃからな。
全部100越えるとなるとなかなかテンション上がってきますね。
うむ、それぐらい実力のある武将じゃと思うから、ぜひ使ってやってほしいぞい。
それでは今回はここまでじゃな。
次もまた見てくださいね、それではまたです。
1⃣・2⃣