三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

任旐(じんちょう) 字:子旟(?~?)

さて、今回は任旐の紹介じゃな。字は子旟(しよ)と言うんじゃ。

なかなか名と字ともに読みにくい方じゃの。じゃが彼はそれなりに重要な人物だったようじゃな。それでは任旐の紹介に行こうかの。

 

さて、今回は任旐じゃな。彼もマイナーな人物じゃな。

何人か過去見かけていますが、彼もまた読みにくい名前していますね。

じゃが、彼はなかなか優れた人物だったようじゃな。と言うことで紹介と行こうかのう。

そう言われると焦和とは違った意味で気になりますね。よろしくお願いします。

人物紹介

さて、それでは任旐の紹介じゃな。

彼は王昶伝の注釈のところに出てくるんじゃ。王昶が自らの甥やその子等に与えた書簡の中に、当代で才能だけでなく人格的にも非常に優れた人物の一人として「任嘏」と言う人物を挙げておるんじゃが、任旐はその任嘏の父親に当たる訳じゃな。

さて、それでは任旐の人物像を追いかけていこうとするかのう。

王昶伝の注釈の『別伝』によると、任嘏の父の任旐は立派な品行によって称賛された、とあるんじゃよ。

後漢末に黄巾の乱が起こり、天下は飢饉に襲われ、人民が互いに食い合った、と言う状況まで陥ったんじゃな。黄巾の乱は各地を攻め食料を奪い、食料が亡くなればまた別の地方に流れて攻めて、と言うことを繰り替えすんじゃな。

当時任旐は博昌におったんじゃが、そんな黄巾賊が博昌まで来ると、任旐の姓と字を聞き「以前から任子旟は天下の圏人だと聞いていた。今賊となっているわし等が、どうして彼のような賢人のいる郷に入ることができるだろうか。」と言いあって、そのまま連れ立って去った、とあるんじゃ。

任旐一人の名声で博昌は救われた、と言うことじゃな。

このことから更に彼の名声は遠近に伝わり、州郡はいずれも招聘して彼を孝廉に推挙したんじゃ。

そしてその後、彼は酸棗と祝阿の令を歴任した、とあるんじゃ。

彼のような父がいたからこそ、任嘏と言う人物も人格に優れた人物として成長できたんではなかろうか、目立つ実績こそないが、評価したくなる人物じゃな。

と言ったところで彼の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行くぞい。今回は、まあワシのみの評価じゃな。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 任旐(20歳)  45 105 60 85
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓
 任旐(45歳)  73 139 90 117

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任旐の評価じゃが、その名声の高さによって黄巾賊までも侵攻をためらうほどの徳の高さじゃろうな。もしワシの評価に天舞の人徳や、三国志14の魅力のような項目があれば、相当高い評価になったんではなかろうか。ワシは統率としてそこは評価しておるぞい。劉備に似たような感じじゃな。

とは言え劉備のように実戦での実績はないから、この辺りが限界じゃな。また令(県令)を歴任しておったことから政治もそれなりの評価じゃな。

 

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雑談ぢゃ

さて、任旐の能力評価じゃな。

統率高いですねえ。やはり戦わずして黄巾賊を退散せしめた部分を評価してのことなのですね。

そうじゃな、実績は少ないが、あの名声の高さをどこかで評価してやりたかったんじゃな。

県令としての実績が見えてこないのは少し残念ですね。

そうじゃな、その辺りがあればもう少し政治や知謀も高くできたかもしれんのう。

それでも十分評価しているじゃないですか。丁度孫邵辺りと比せられるぐらいにはなった射ますよね。後の呉の丞相と同等クラスと考えたらすごいと思います。

まあ、孫邵自身も実績がないのが惜しい人物じゃからな。二人とも実績が残っておったらどんな評価となったことか。

情報が少ないのが惜しまれますね。

うむ、そうじゃな。さて、今回はここまでじゃな。彼も一人勢力じゃが、統率と政治が高い分、まだ戦いようがあるぞい。それでは次も、良ければご覧くだされ。

良ければ次も見てくださいね。それと他に気になる方がいましたら下の索引からご覧ください。

 

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