さて、今回は袁術の紹介2回目じゃな。
今回は彼の後半生を見ていくとしようかの。しかし、それ以外の意外なエピソードも載せたいことから、もう一回ぐらい紹介はしないといけないかのう。
さて、それでは袁術の後半生を見ていくとしようかの。
さて、今回は袁術の後半生じゃな。
そう言えば、袁術が南陽で贅沢三昧で際限なく税金を取り立てたので云々、のところで疑問を呈していましたが、何か根拠あるんでしょうか?
うむ、単純な話じゃが、あそこでは南陽郡の戸数人口は数百万もあった、と言うんじゃが、三国時代の人口を考えれば明らかに過剰に書いておるじゃろう。
確かに魏でも戸籍人口は400万ちょっとですから、南陽だけで匹敵しそうですねw
うむ、袁術の政治が良かった、と言うつもりはないが、実態以上に悪く言われておる可能性はあると思うんじゃ。さて、あまりダラダラ語る訳にもいかんのう、早速行くぞい。
分かりました。よろしくお願いします。
人物紹介
李傕からの誘い
さて、揚州周辺を支配した袁術じゃが、この勢力を脅威を感じたのか、長安の李傕は袁術を味方に取り込みたい、と考え袁術を左将軍に任じ、陽翟侯(ようてきこう)に取り立てようとしたんじゃよ。
この時に太傅の馬日磾に各地の将軍を巡行させ、叙任させようとしておったじゃ。
じゃがこの時に袁術は馬日磾の節(使者のしるし)を奪い取ってしまうんじゃ。
『献帝春秋』によると、最初袁術は馬日磾から節を借りて見せてもらったんじゃが、そのまま奪い取って返さなかったんじゃ。
実はこの馬日磾じゃが、鄭玄の師匠であった馬融の族子に当たり、馬融の学問を受け継いだ人物なんじゃよ。鄭玄とは兄弟弟子の関係じゃった、と言うことじゃな。
馬日磾は節を失い、しかも袁術に拘留され、立ち去れんかったようじゃな。
陳珪との関係
下邳出身の陳珪じゃが、元の太尉陳球の弟の子だったんじゃ。袁家も四世三公を輩出しており、どちらも三公を生んだ氏族の子弟であったため、若い頃から互いに行き来しておったんじゃよ。
そこで袁術は陳珪を取り込もうとして手紙を送るんじゃ。
「昔、秦が誤った政治を行い、天下の群雄が競って政権を奪い合いまして、知恵と勇気を兼ね備えた者が最後にその果実を手に入れました。
現在世の中は乱れに乱れ、ふたたび瓦の砕けちる状況となりました。
まことに英傑が行動を起こすべき時です。足下とは昔馴染み、援助を承知してくださいましょうね。もし大仕事を成し遂げる時には、君は実際私の腹心となってくれることと思います。」
そして、丁度この時期陳珪の二番目の子の陳応が下邳におったんじゃが、袁術はこれを脅して人質に取り、陳珪を如何あっても呼び寄せようと考えたんじゃ。じゃがこれを陳珪はきっぱりと断ったようじゃな。
この時点で袁術は漢王朝を見捨てて、大仕事を成し遂げようとしておったんではなかろうか。先見の明はあったと思うんじゃが、やろうとした手段が悪手じゃったと思えるのう。
皇帝への道
195年(興平2年)、献帝は李傕、郭汜らに追撃され、曹陽において敗北したんじゃ。この情報を得た袁術は配下の者を集めて言ったんじゃ。
「現在劉氏は衰弱し、四海の内は湧き立つ湯のような騒動である。ワシの家は4代続いて三公の位に上り、人望が寄せられている。天啓に答え、人々の期待に添いたいと思うが、諸君の気持ちはどうか。」
明らかに自身が皇帝になることを意識した発言じゃな。
思い切って答える者はいなかったんじゃが、一人主簿の閻象が進み出て諫めるんじゃ。「昔、周は后稷から文王に到るまで恩徳を積み、手柄を重ねて天下の三分の二を支配しながらも、なお殷に臣下として仕えました。
殿のお家は代々繫栄しておられますが、まだ周の隆盛には及びませんし、漢の王室は衰えたりとは申しても、未だ殷の紂王の暴虐さには至っておりません。」
袁術は押し黙ったまま、不機嫌な様子だったと言うんじゃな。
じゃが結局袁術は197年、皇帝となってしまうんじゃ。
この時は天の意思を示す瑞兆が下ったと言う河内の張烱の説を採用して、皇帝を僭称するんじゃ。
『典略』によると袁と言う姓が陳から出ており、陳は舜の子孫であることから、土(舜は土徳で天下を支配した)が火(漢王朝)を受け継ぎ、五行の巡り合わせに適っていると考えたんじゃ。
また預言書に「漢に代わるものは当塗高である。」と書かれているのを見て、自分の名と字がこれに該当する、と考えたんじゃ。
これは「塗(みち)に当たりて高くそびえるもの」、と言う意味らしく、魏(宮中の門外に二つの台があり、その上に高くそびえる望楼)を本来は指すようなんじゃ。
上でも書いておるように、実はこの予言は、曹魏が後に漢の後を継ぐことを指しておったようなんじゃよ。何とも皮肉な話じゃな。
じゃが袁術はこれを自身に都合の良いように解釈したんじゃ。袁術の「術」「公路」はどちらも「みち」の意味を持つ。このことから「塗(みち)」と通じる、と言うことで自身こそが後漢の後を継ぐ存在、と考えたんじゃな。
袁術の最後
さて、こうして皇帝になった袁術じゃが、荒淫や奢侈は酷くなり、後宮の数百人の女達は皆あやどりをした薄絹を身にまとい、上質の米と肉は有り余っていた、とあるんじゃ。
その一方で士卒は飢え凍え、彼の支配地域は何一つなくなり、人々は互いに食い合いをする有様であったと言うんじゃ。
この時袁術は呂布に打ち破られ、その後曹操にも撃破されて、雷薄・陳蘭のもとに逃げたんじゃが、そこでも受け入れられなかったんじゃ。
彼は心配と恐怖にどうして良いかわからず、皇帝の称号を袁紹へ送り、青州へ行って袁譚の元へ身を寄せようとしたが、その途中で発病して死亡してしまうんじゃ。
これには異説もあって、『呉書』によると雷薄に拒絶された袁術はその地に三日間留まるが、ついには食料も切れてしまうんじゃ。残りは麦のくずが三十石ほど。
袁術は蜂蜜入りの飲み物が欲しいと思ったが、蜂蜜もなかったんじゃな。
袁術はしばらく寝台に腰を下ろし、ため息をついていたが突如「袁術ともあろうものがこんなざまになったか」と叫び寝台の下にうつぶせになり、一斗余りの地を吐いて死んだ、と言うんじゃ。
『呉書』の記述に関してはかなり創作っぽい話じゃのう。いろんなメディアで語られる蜂蜜エピじゃが、話半分ぐらいで聞いておいた方がよさそうじゃ。
さて、これにて袁術の一生の紹介は終わりじゃな、次はそれ以外のエピソードと能力評価を行っていくぞい。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい