さて、今回紹介する人物は橋蕤じゃな。字は不明じゃ。
生年は不明じゃが没年は197年じゃな。彼は演義にも確か出ておるから名前は知っておる人も多いのではなかろうか。
さて、今日は橋蕤の紹介じゃ。そう言えば昨日はスマンかったのう。
急に休まれましたからね、大丈夫ですか?
ウーム、仕事中もずっと頭が重くて少し熱っぽい感じがあったからのう。まあ昨日少し長めに寝ておったから大丈夫じゃ。
と言うか休日に寝ずに遊びすぎですよ。もう少し睡眠はきっちりとって下さい。
う、うむ、まあモンハンがもう少し落ち着けば睡眠時間もとれるであろう、多分のwさて、いつまでも脱線しておくわけにいかんのう。今回紹介するのは橋蕤じゃな。
演義でも出てきましたが、余り見せ場もなくやられたような気がします。
史書の方もあまり大きくは変わらんようじゃ。それでは早速見ていくとしようかの。
人物紹介
袁術陣営における官位
さて、橋蕤じゃが、彼の名前が初めて出てくるのは、袁術と曹操が兗州にて初めてぶつかった後じゃな。
『袁術伝』によると袁術が陳留に侵入してきたので、曹操は袁紹と協力して攻撃し、袁術軍を大いに撃破したんじゃ。袁術は残った軍勢を連れて九江に逃亡し、揚州刺史の陳温を殺害した、とあるんじゃ。
これには諸説があって殺害したのは陳温でないかもしれんが、ともあれ袁術が豫州から揚州にかけて勢力を伸ばしたのは確かじゃな。
そしてこの時袁術は橋蕤を大将軍に任じた、とあるんじゃ。
大将軍は将軍位の最高位じゃな。この時複数人が大将軍だったようじゃが、橋蕤が袁術陣営において軍事面でトップの一人だったのは確かじゃろうな。
橋蕤の戦闘記録
さて、袁術が寿春に進出した時のことじゃ。
『何夔伝』によると、この地で袁術は戦乱を避けて淮南に避難しておった何夔を召し出そうとしたんじゃ。じゃが、何夔はこれに応じんかったようじゃな。
しかし、それでも袁術は彼を引き留め、動くことができんかったようじゃ。その後袁術は橋蕤と協力して、キ陽を攻撃し、包囲するんじゃ。
じゃがこの時キ陽は曹操に味方して守り抜いたようじゃな。城攻めはこの時代難しいから止む無し、じゃな。
ここで更に袁術はキ陽を落とすために何夔を使おうと色々と策略を巡らすんじゃ。策士らしい話じゃが結局これはうまくいかんかったようじゃな。
孫策との関係、そして最後
さて、橋蕤じゃが孫策が袁術の下に出仕してくるようになると、孫策のことを非常に高く評価し、心から孫策を尊敬した、とあるんじゃ。
将としての実績はあまり残せておらんが、人を見る目、そして若者と言えど素直に評価し尊敬できる心根は大したものではなかろうか。
さてそんな橋蕤じゃが、曹操の陳国への侵攻を聞くと袁術は逃走し、楽就等と共に橋蕤も残留させられるんじゃ。
曹操は到達すると彼らを撃破し、残留していた将を全て斬り殺したんじゃ。橋蕤も戦場の露と消えたわけじゃな。
さて、橋蕤の人物紹介は終わりじゃな、続けて能力評価と行くぞい。今回は鄭問さん以外に出ておるのう。
能力評価
橋蕤は袁術軍で大将軍と軍のトップになっておることから軍事側の能力を高めとしておるんじゃ。
また孫策の器量を高く評価する等人物眼も備えており、常識人的な様子がうかがえることからそのほかの能力も平均的としておいたんじゃ。ただ実績は少ないのでやや抑えめじゃがな。
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雑談ぢゃ
さて、橋蕤の能力評価じゃな。
基本は皆さん似た感じでしょうか。師匠が全体的にやや高め、ぐらいですか。
そうじゃな、もう少し低いのかもしれんが、大将軍と言う肩書から少し補正した感じかのう。
確かに同じように斬られた楽就よりは少し高めですね。
そこまで強力、と言う訳ではないが、ある程度なんでも任せられる。そうでなくては大将軍にもなれんじゃろうからな。さて、それでは今回はここまでじゃな。
紹介ありがとうございました。次もまたよろしくお願いします。他に気になる人物がいましたら下から探してみてくださいね。