さて、今回は程普の紹介2回目じゃな。今回は程普が亡くなるまでの後半生、それから気になる程普の能力評価と行こうかのう。
さて、今回は程普の紹介2回目じゃな。
どうも、張郃だ。ほう、程普は最古参だから、後2~3回続くかと思ったが、案外短いのだな。
確かに黄蓋も2回ですが、彼は戦績紹介とかが無くて2回ですから、思ったよりも程普の紹介少ないのですね。
うむ、実は彼自身に関するエピソードは案外少なかったんじゃよ。それでは早速見ていこうかのう。
人物紹介
赤壁の危機
さて、ここは程普だけでなく呉軍にとって大一番であった、赤壁の戦いじゃな。この時、程普は周瑜と共に左右の都督となり、赤壁方面の軍の統括を行っておったんじゃよ。
じゃが、知っている方は知っていると思うが、程普と周瑜は折り合いが悪かったんじゃ。と言ってもどちらかと言うと程普が一方的に周瑜に対して敵愾心を持っておったような感じじゃな。
夷陵の時の陸遜もそうだが、自尊心の高い古参武将と言うのは、時として厄介な存在になる。この時の程普も少しそう言った気を見せていた、と言うことだな。まあ自尊心は上に立つ人物である以上、皆無でも困る話であるし、難しいところであるな。
魏も張遼殿や于禁・楽進殿達も同じように誇り高く、相容れない性格であったようじゃからのう。
ただ、魏の場合は彼らをうまく御することのできる趙儼殿や温恢殿がいたからな。これは呉蜀にはない、大きな組織的な利点であったと思うぞ。
「以前、周瑜と程普が左右の督となり、共同して江陵を攻めたことがございました。最終的な決定は周瑜が成したのでありますが、程普には古くからの武将であるという自負があり、それに二人とも指揮官だと言うことで、二人の間がうまくゆかなくなって、国家の大事を損なうことになりかけたのであります。」
と二人に指揮権を持たせることの危険性を説いているんじゃよ。それぐらいこの時の程普と周瑜の関係は危険な状況だった、と言うことじゃな。
周瑜の神対応
じゃが、この時は周瑜の対応が素晴らしかったんじゃ。『江表伝』によると程普は自身が年長であったことから、しばしば周瑜を侮辱したんじゃよ。
じゃが周瑜は身を低くし下手に出て、決して逆らおうとしなかったんじゃ。後に程普は周瑜に敬服して親しむと同時に尊重するようになると、人に告げて言ったんじゃよ。
「周公瑾殿と交わっているとあたかも芳醇の美酒を飲んだように、自らが酔ってしまったことに気が付かない。」
この辺りの人物像を見ていると、ある人物を思い起こさせるな。
そうじゃな、自尊心が高い割に、ちょっと子供っぽい面もあるところは、少し関羽を想起させるのう。
さて、程普は生没年は不明なんじゃが、孫堅に仕えた武将の中では最年長であった、と言うことから、当時の人々は皆程公と呼んだんじゃよ。と言うことは孫堅や曹操よりも年上であったのかもしれんのう。
その後、周瑜が亡くなると、程普が後を継いで南郡太守となるんじゃ。その後孫権が荊州を分割して劉備に与えると程普は元の江夏を治めることとなり、盪寇将軍に昇進した後、死去したんじゃよ。
呉一番の長老格として孫呉三代を支えた程普の最後じゃな。
さて、程普の人物評価は終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼はもちろん全作品に登場じゃな。
能力評価
さて、程普の能力で目を引くのはやはり突出して高い軍事能力じゃろうか。史書の程普を見る限り、文武両道と言うより勇猛さの方が克っているとわしの目には映るんじゃよ。
その一方で知略統治面では特段目立つ実績が見られんのじゃ。そこでイメージとは違うかもしれんが、軍事統率面に比べ、知謀と政治面はやや抑えめの評価としたんじゃ。
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雑談ぢゃ
さて、程普の能力評価じゃな。
お主以外はいずれも統率の方が武力、軍事と同等以上と言うのは共通なのだな。
三国志14は知力と政治も高いですね。
演義では文武両道タイプの最古参と言う印象じゃったからな。じゃが史書を見る限りはむしろ関羽とかに近い、愛すべき猛将と言った方が近い感じじゃな。
勇猛であり都督にもなれる人望の高さ、と言うことからお主の評価も別にそうは外れていないと思うぞ。能力も関羽の知謀と程普の統率を逆にすると似たような値で、まさに呉軍を代表する武将と言う感じではないか。
張郃殿にそう言ってもらえるのはありがたい話じゃな。さて、程普の紹介はここまでじゃが如何じゃったろうか。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。