さて、今回紹介するのは周舒と言う人物じゃな。字は叔布、生没年は不明じゃな。結構高名な人物のはずじゃが、演義の影響か現代の知名度は高くないのう。
さて、今回は周舒の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。弟子よ、袁術が帝位に就いた時のエピソードを覚えているか?今回は袁術の話とも深いかかわりがあるから、覚えておくと良いぞ。
袁術が皇帝になった時と言うと、何かありましたでしょうか。予言で「当塗高」がどうのこうのと言うのは何となく覚えていますが・・・。
うむ、それを覚えていれば十分じゃな。それでは周舒と袁術のちょっとした関係(別に深い関係ではない)、見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて、周舒について見ていくと蜀志『周羣伝』に出てくるんじゃ。周羣は知っている人もいるかもしれんが、後に劉璋、劉備に仕える人物なんじゃ。図讖(将来の吉凶を記す神秘的予言、「としん」と読む)の術に優れておったんじゃが、これは全て父の周舒から教えられて叩き込まれておったようじゃな。
その周舒自身は若い頃広漢の楊厚と言う人物に図識を学んだとあるんじゃ。。
実は劉焉の所に少しだけ出てきて、劉焉に益州に天子の気がある、と進言した董扶もこの楊厚の弟子だったらしいな。
つまりこの二人は兄弟弟子であった、と言うことじゃな。
さて、ここで周舒に関する予言のエピソードじゃが、当時ある人が周舒に
「『春秋讖』に、漢に代わるものは当塗高、とありますがどんな意味ですか?」
と質問したんじゃ。
図讖と言うと既に出てきた人物で言うと袁家は元々図讖に深くかかわっておる家で、袁術もこの「当塗高」と言うのは自身のことを指している、という解釈の下に皇帝を名乗ったんじゃよ。詳細は袁術の紹介の所を見てくれると良いぞ。
さて、この質問に対して周舒の回答は非常に簡潔で「当塗高とは魏です。」と答えたんじゃ。
この謎解きも袁術の所に書いてあるんじゃが、魏とは宮殿の門の名称を指し
当塗高→塗(道路)に当たって高くそびえるもの→門(魏)のことを指す
漢に代わるは魏である、と言うことじゃな。
更に言うと、昔は官職のことを「曹」とは言わなかったんじゃ。漢代になって初めて、官のことを「曹」と言い、役人を「属曹」と言い、下働きを「侍曹」と言うようになったんじゃ。
つまり図讖や漢代に使われる言葉全てが、漢は魏に取って代わられ、曹氏に属し従うようになる、と言うことを暗示しておった、と言うことなんじゃな。
予言書はおおむね直接的な言葉を避け、類推できるものを持ち出して説明している、と当時言っていたが、その通りだな。
さて、そんな周舒じゃが実は基本出仕せず、隠棲しておったらしいんじゃ。じゃがこのままでは埋もれたまま亡くなってしまいかねんので、ここで出したんじゃ。
さて、周舒のエピソード紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼はワシのみの評価じゃな。
能力評価
周舒は図讖の技術に優れ、また漢に代わるものは魏である、と言い当てたエピソードなどから特に知謀が高い評価となったんじゃ。
じゃが、その一方で出仕せず隠棲しておったことから、知謀以外は全体的に抑え目の評価となったんじゃよ。極端じゃのう。
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雑談ぢゃ
さて、周舒の能力評価じゃな。
予言で未来の吉兆を占うことができる。知略とはまた違うが、日本の戦国時代にもこの手の軍師は結構いたからな。
日本の戦国武将って戦術家の印象が強いのですがそうでもないんですね。
そう言った参謀型軍師ももちろんいたが、祈祷や縁起担ぎ等を行う軍配者型軍師と言うのもいたからのう。山本勘助とかは謎が多く軍配者型軍師だったのではないかと言う人もおるのう。
軍配者型軍師の代表的なところは豊前大友家に仕えていた「角隅石宗」が有名だな。
演義で言うなら、それこそ諸葛亮のパフォーマンスの数々は、軍配者型軍師の行動を大袈裟に見せたものじゃからな。さて、この辺りのネタはその気になると何時間でも話せるんじゃが、ここらで終わりとしようかのう。良ければ次も見てくださるとうれしいぞい。
よし、今日は終わりだな、俺も一旦帰るか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。