三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹整(そうせい) 字:不明(?~218)

さて、今回は曹整の紹介じゃな。彼は曹操の息子なんじゃが、従叔父の曹紹の後を継いだ人物だったんじゃ。それ以外に彼はちょっとした、数奇な運命をたどった人物でもあるんじゃよ。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹整の紹介じゃな。彼は曹操の息子の一人じゃが、従叔父の曹紹の後を継いでいるんじゃよ。

 

曹操と曹紹は従兄弟の関係ですよね。そう考えるとちょっと遠い姻戚関係になるのですね。そう言えば、数奇な運命と言うのは何でしょうか?

後で詳細を載せるであろうが、袁譚殿の娘と曹整殿の間で一度縁組みしているのだ。もっとも後に袁譚殿が約定を反故にしたことで、離縁しているのだがな。

うむ、それでは曹整について見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 曹整(20歳)  40 35 50 55
 ↓ ↓ ↓ 
 曹整(45歳)  68 62 79 84

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

曹整については以下に記録が載っているんじゃよ。

建安八年(203年)、公(曹操)が鄴を去って、南に帰ると、袁譚袁尚冀州の支配権を争い、袁譚袁尚に打ち破られ、逃走して平原を保持した。

袁尚がこれを激しく攻撃したので、袁譚は辛毗を派遣して降伏を乞い救援を要請した。

諸将は皆ためらったが、荀攸は公にそれを許すよう勧めた。公はそこで西平から軍を引き上げて帰った。冬十月黎陽に到着すると、子の曹整のために袁譚の家と縁組した。

~中略~

九年(204年)、公が鄴を包囲していた時、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略した。袁尚が敗れて中山に帰ると、袁譚はこれを攻撃し、袁尚は故安に逃走し、その結果、袁譚はその軍勢を吸収してしまったんじゃ。

公は(袁譚のこの行為に怒り)袁譚に書簡を送り、約束に背いたことを責め、彼と姻戚関係を断ち、袁譚の娘が帰途に着いたその後で軍を進めた。(『武帝紀』)

聞きにくいことなんですが、帰された袁譚の娘はどうなってしまったのでしょうか? 

最後袁譚は捕まり斬られ、妻子も処刑された、とあるので恐らくその時に処刑されたのであろうな。 

そうですか・・・曹整はどう思ったのでしょうね。

それでは曹整本伝の方を見てみるとしようかのう。 

郿の戴公子曹整は、従叔父の郎中曹紹の後を継いだ。建安二十二年(217年)郿侯に取り立てられ、二十三年(218年)逝去し、子はなかった。(『郿戴公子整伝』)

「殤」が付いていないですし、203年に姻戚を結んでいると言うことは、成人には達していそうですよね。でも子供はいなかったのですね。 

203年の出来事が、どこまで曹整殿の人格形成に影響を及ぼしたのかは分からないが、何らかの形で彼の人生は歪んでしまったのかもしれないな。 

 

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簡単解説

実際亡くなった時は何歳ぐらいだったんでしょうね。

文帝殿より年齢が上と言うことはないだろうから、190~200年の間に生まれたのは間違いないであろうな。そして婚礼時の年齢が高ければ高いほど、その後に受けた影響は大きかったであろう。

この辺りは本当分からんのよなあ、2~3歳程度ならほとんど記憶にも残らんじゃろうが、分別が付き、思春期に突入していれば大きな影響を受けるであろう。

もしそうだとすると残酷な話ではあるのう・・・さて、少し悲しい話じゃが曹整についてはここまでじゃな。

よし、それでは今日は帰るぞ。次もまたよろしくな。  

張郃さんお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。