さて、今回はもう一人の曹範の紹介じゃな。彼は彭城王曹據の息子に当たる人物なんじゃよ。彼についての記録も見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回はもう一人の曹範の紹介じゃな。彼の方は曹據の息子じゃな。
こちらの曹範には兄弟として曹闡・曹琮がいましたね。
曹闡殿は今回紹介している曹範殿の跡を継ぐような形になっているな。
うむ、こちらの曹範も情報は少なそうじゃな。それでは早速見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
こちらの曹範については魏志『郿載公子整伝』に載っているんじゃよ。
曹整が逝去すると、載公の諡号を賜り、彭城王曹據の子の曹範に曹整の後を継がせた。黄初三年(222年)平氏侯に取り立てられ、四年(223年)成武に国替えされた。
太和三年(229年)、公に爵位が昇進し、青龍三年(235年)逝去した。諡号を悼公と言う。後継ぎはなかった。(『郿載公子整伝』)
後継ぎはいなかったのですね、結構長い期間記録が残っているのに、少し意外ですね。
父の曹據殿がまだ220年頃、まだ30なるかならないか、と言ったところであろうからな。まだ222年の段階では幼かったのであろう。
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簡単解説
やはり他も作品には登場していないですね。
これぐらいの人物は他の作品には出ていないのが当たり前だな。
まあ、演義にも出ていないからのう。さてもう一人の曹範に関してはここまでじゃな。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは今日のところは帰るとするか。
張郃さんお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。