さて、今回陸遜の7回目の紹介じゃな。随分長くなったが、ここいらで終わりとしたいのう。前回の続きじゃが、ここで一部批判の声が上がっているのじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は前回の続きじゃな。陸遜と諸葛瑾が襄陽から離脱した後の話じゃな。
前回もちょっと語っていた批判となる話が来るわけですね?
常在戦場と言う言葉もある通り、別に大したことはしていないと思うがな、平和ボケした連中の戯言にしか思えん。
まあ、その辺りは実際の逸話を見て各々判断していけばよいと思うんじゃよ。
人物紹介
江夏襲撃
陸遜と諸葛瑾が襄陽から退却した時の事、白囲と言う地まで来たところで、陸遜が動き出すんじゃよ。感じとしては下のような位置取りになるんじゃ。
(襄陽から退却し)、呉の軍が白囲まで来たところで、そこに軍を留めて、狩猟をするのだと表面的には公表し、ひそかに将軍の周峻や張梁らを遣って、江夏の新市・安陸・石陽に襲撃をかけさせた。(『陸遜伝』)
江夏の3つの都市は上の画像の点線で囲っている辺りに位置している。もちろん魏領だ。
帰還途中に近くの都市を攻めるのは普通にあることだと思いますが、何か問題があるのですか?
それは次の一文の裴松之の坊やの余計な文言のせいだな。
石陽の市場はにぎわっていたが、周峻らが突然現れると、人々は皆品物を棄てて城中に逃げ込もうとした。城門は人の群れでつまって閉ざすことができず、敵方は配下の民衆をその手で斬り殺して、やっと門を閉ざすことができた。
呉の軍が斬首したり、生け捕りにしたりした者の数は数千人にのぼった。生け捕りにした者たちに対しては、皆保護を加え、兵士たちに命じて乱暴な真似をすることを許さなかった。(『陸遜伝』)
確かに民衆が犠牲になっているとは思いますが・・・これはどうなんでしょうか。
国境近くの都市で、しかも襄陽で魏と呉が戦端を開いていた時に、何を温いことをやっているのだ、としか思わんがな。
むしろ魏の人間としては情けない、としか思わんぞ。
この記述に裴松之は噛みついたのですか。
北伐時の諸葛亮と比較して、こんな野蛮なことをしたから陸遜の一族は三代持たなかったのではないか、と言っているな。
だが、諸葛亮とて北伐の際に、関中で麦を刈り取ったりして、現地住民に被害を与えている、裴松之は現実が見えていない。
また、人によっては魏を攻撃した、と言う部分を無視して、董卓と同じように単に無辜の民衆を虐殺した、と言う輩までいるからのう。
それはさすがに解釈が飛躍しすぎではありませんか?
人は誰もが自分の都合の良いように物事を受け止めようとするからな。残念ながらその人にとってはそれが真実(であって欲しい出来事)なのだろう。
この時生き残り捕虜になった民衆で家族がいた者は、捕虜の下に言って世話するのを許し、妻子に犠牲があったものには衣服食料を給し手厚くいたわりをかけたうえで、自由にして帰らせたりしているんじゃよ。
裴松之がどれだけ批判しようとも、城門を閉じるために民衆を斬り殺した魏側の対応より、呉側の対応を好ましく思い、帰順した者たちがこの時かなり出たのも確かじゃからな。
そう言った追加情報を無視しすぎですね。
民衆に全く犠牲が出ない戦い等ありえないからな。その上で尚ついて行く、と言う部分は陣営に対する印象がどうであったか、如実に表すことになるからな。
これだけの貢献をした陸遜も、晩年は後継者争いにまきこまれてしまうんじゃからな。彼が君主となるイフ世界も見てみたいもんじゃ、と言う所で陸遜の紹介はここまでじゃな。
陸一族ももう残り一人じゃが、終わったところで武将ランキングなども見ていくとしようかのう。
皆さんお疲れ様でした。次もまた良ければ見てくださいね。
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