さて、今回陸抗の紹介、2回目じゃな。今回は陸抗を代表する戦い、西陵の戦いについて紹介しようと思うんじゃ。実はこの西陵かつては夷陵と呼ばれた地でもあるんじゃな。そう、陸遜が劉備を撃破した重要な地、因縁の地でもあるんじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は陸抗の代表的な戦い、西陵の戦いについて、詳細を見ていくとしようかのう。
上見てびっくりしたのですが西陵って夷陵と同じとこだったんですね。陸遜親子にとって非常に関わりの深い土地なのですね。
中華における重要な拠点と言うのは時代を超えても大きくは変わらないからな。西陵が重要な土地だと言うのはこの時代共通の認識なのであろうな。
さて、それではまずは西陵の戦いの概要と大まかな位置関係を見ていくとしようかのう。
人物紹介
西陵の戦い(序章)
さて、これは陸抗晩年に近い272年に勃発した歩闡の裏切りから始まるんじゃな。ちなみにこの歩闡は陸遜の後に丞相になった歩隲の息子であり、呉における家格は陸家にも劣らないほどの重要人物であった訳なんじゃよ。
鳳皇元年272年、西陵の督であった歩闡は城に立てこもって呉に背くと、使者を晋に送って降伏を申し入れた。
陸抗は、このことを聞くと、即日諸軍団に指令を出し、将軍の左奕・吾彦・蔡貢らに命じてただちに西陵に赴かせた。(『陸遜伝』)
話を聞くに歩闡も相当な重鎮っぽいですが、何故裏切ったのですか?
うむ、そこに関しては歩隲伝の方に詳細は載っているようだな。
鳳皇元年272年に(歩闡は)、中央に召し還されて繞帳督に任ぜられることになったが、歩闡は父祖代々西陵にあったのに、この時急に中央に召されると言うことで、職を奪われるのだと考え、また讒言にあってひどい目に遭うのではないかとも恐れて、城をあげて晋に投降しようとした。(『歩隲伝』)
なるほど、呉の朝廷に対する疑心暗鬼がこの時期には出既に蔓延っていた訳ですね。
陸抗が唯一の呉の良心と言われる所以だな。彼は最後まで呉を裏切らうに忠節を誓っており、この時も素早く呉のために対処していた訳だ。
さて、それでは冒頭にも書いていた通り、荊州におけるこの戦いの位置関係を見ていくとしようかのう。まずは荊州を流れている大きな河川二つの位置関係を見てもらおうかのう。
こうやって見ると長江って、思ったほど北を流れてはいないのですね。
どちらかと言えば中央付近を流れている訳だからな。逆に言うと長江流域を抑えられると、呉にとっては相当まずい状況となる訳だな。
さて、それでは当時の西陵周辺の主な拠点を見ていくとしよう。
西陵は見てわかる通り、荊州の中でも西に位置している。そして長江を少し下っていくと江陵へと到達する。陸抗は江陵に駐屯していたから素早く対応できた、と言えるだろうな。
質問があるのですが、西陵と江陵、それと関羽と曹仁の戦った襄陽や樊城の情報が載っているのは分かり易くてありがたいのですが、当陽が載っているのは何か関係があるのでしょうか。
それはもうちょっとしたら語られることであろう。まずはこの位置関係をきちんと覚えておくと良いぞ。
うむ、それではまず、今回は序章と言うことでここまでじゃな。次はこの荊州中央の盤面を使った陸抗の戦い、その詳細を語っていこうかのう。
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