三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

陸遜(りくそん) 字:伯言(183~245)その5

さて、今回陸遜の5回目の紹介じゃな。陸遜自身については夷陵の後にもまだ続くのでもう一回ぐらい紹介しておきたいが、夷陵の戦い自体は今回で締めておきたいのう。それでは見ていくとしよう。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は夷陵の戦いの終盤戦じゃな

夷陵の戦いまででもう5回ですから、そろそろ終わらせたいですね。

まあ、さすがに今回で終わるだろう・・・終わるよな? 

ま、まあ陸遜自体の話はまだ続くんじゃが、夷陵は今回で最後の予定じゃよ。それでは早速夷陵の戦い、ラスト?を見ていくとしよう。

人物紹介 

夷陵の戦い(終盤)

さて、それでは地図を元に、それぞれの動きを見ていくとしよう。

夷陵の戦い

陸遜は(次のように)言った。

劉備は狡猾な奴で、様々な場面を経験しておる故、その軍が攻め込んできた当初は、事細かに集中して謀を巡らせるであろうから、それを攻めるのはよろしくない。

現在は久しく留まったまま、我が方に乗ずべき隙も見つけられず、蜀の兵士たちは疲労して意気は阻喪し、この局面を打開する策も生み出せぬままである。この賊徒どもを手取りにするのは、まさしく今なのだ。」

そう言ってまず一つの陣地に攻撃をかけたが、得るところがなかった。部将たちが揃って言った。

「無益に兵士たちを殺しただけの事だ。」

陸遜が言った。

「これで敵を撃ち破る術が分かった。」(『陸遜伝』)

何だかんだで陸遜はかなり劉備を警戒していたのですね。 

実際、劉備は最初呉班を囮に呉軍をつり出そうとしていたからな。陸遜はそれを見抜き、動こうとしなかったからな。

それにしても陸遜は一度軍を派遣して一体何を見たのでしょうか? 

蜀軍の疲労度や動きの鈍さ、後は単純に屯営の配置を確認したのであろう。その辺りは孫権へあてた上疏の内容からも何となく読み取れるぞ。

「~前略~

劉備は天のおきてを犯し、その巣窟(夷陵)を離れて、のこのこと出てまいりました。

~中略~

臣は最初、敵は水陸両路から攻めてくるのではないかと警戒しておったのでございますが、今、そうはせずに、船を棄てて徒歩となり、処々に陣営を設けております。その配置から見て、決して裏で別の策略を巡らせておるとは考えられません。」(『陸遜伝』)

陸遜にしてみれば、水陸両軍で連携して攻められることを、一番警戒していたのであろう。それがないと言うことで、呉が簡単に負けることはない、と踏んだのであろうな。

そう言えば張郃さんも漢中で戦ったんですよね。劉備に対してどんな印象を持っていたのですか? 

そうだな、劉備と言うと負け将軍の印象が強いが、それは軸足が守備よりにかかっているからだな。冒険はなかなかしない・すぐに逃げてしまうが故、逆に劉備を完全に倒すのは難しいのだ。

特に漢中の時は地勢から魏側の兵站が苦しかったからな。

ただ、今回の夷陵の戦い劉備側が攻める方ですから、今度は立場が逆ですよね。 

そうだ、しかも孫権への上疏の中に、水陸両軍で攻められることを警戒していた。逆に言うとそこが狙いめ、と考えていたのではないかな。

夷陵の戦い(呉軍の逆襲)

夷陵の戦い

陸遜は命令を出し、兵士たちにそれぞれに茅を一束ずつ持たせると、火攻めにして陣地を陥落させた。

これをはずみとして、全軍に指令を出し同時に総攻撃をかけさせ、張南や馮習、それに異民族の首領の沙摩柯らの首を斬り、四十余の陣営を撃ち破った。

劉備の武将の杜路や劉寧らは切羽詰まって投降を願い出てきた。

劉備は馬鞍山(夷陵の西北20里ほどに位置)に登ると、自分の周囲に兵士を配置した。

陸遜が諸軍を叱咤激励して四方からこれに肉薄して攻撃を加えさせると、蜀の陣地はバラバラに崩れて、その死者は数万に上った。

劉備は夜陰に紛れて逃走し、宿場の役人が自ら荷物を担い、軍楽器や鎧を道に積み上げて火をつけて追っ手を妨害し、やっとのことで白帝城に逃げ込むことができた。(『陸遜伝』)

圧倒的な勝利ですね。蜀側で名前の挙がっていた武将が戦死したり、投降している訳ですものね。 

ただ、ここの記述を見ていて少し疑問に思うことがあるな。

それはいったい何ですか? 

当初劉備は巫・建平から夷陵に至るまで連なり合った数十の砦を築いた、とあるが、呉軍の反攻で四十余の陣営を撃ち破ったとある。恐らくほぼすべての陣営が陥落させられたと見て良いだろう。

な、なるほど? 

つまり、記事が事実なら劉備の逃げ道の西の巫や建平も既に呉軍に抑えられている可能性が高いはずだ。白帝城は巫よりもさらに西で、とうてい逃げ切れるものではない。だが、実際に劉備は逃げきっている、つまりだ。

巫・建平からの連なった陣営はなかった、記事に間違いがあると言うことでしょうか?

屯営の連なりがあったとしても夷陵からであろうな。

まあ、屯営を連ねたことが命取りとなったのは確かだがな。

こ、今回は難しい話が多いですね。

なに、単純な計算の話だ。仮に劉備の率いる軍が4万として、40の屯営を築いたら、一つの屯営に駐留する軍の兵力はどの程度か。

計算すると一つ辺り1000人となりますね。

いくら何でも分散させ過ぎだ。もし互いに協力できない距離の屯営があれば、そこから各個撃破されていくであろう。

しかも兵の多くは陸に固定していたようであるから、いざという時に水上に逃げることもできなかったであろう。劉備自身の逃げ方がまさにそうだからな。

ともあれ、これで大勢は決した。この時の蜀の被害を見ていこう。

 陸遜☆   劉備☆ 
朱然 馮習(戦死)
潘璋 張南(戦死)
宋謙 輔匡
韓当 趙融
徐盛 廖淳
鮮于丹 傅肜(戦死)
孫桓 馬良(戦死)
李異 向寵
劉阿 呉班
駱統 陳式
蒋壱 黄権(魏へ降伏)
駱統 沙摩柯(戦死)
- 龐林(魏へ降伏)
- 程畿(戦死)
- 王甫(戦死)
- 杜路(呉へ降伏)
- 劉寧(呉へ降伏)

こ、この被害はちょっとすごくないですか?

本来将官は後方に控え、それこそ自身や龐統のような流れ矢でも当たらない限り、めったに戦死はしないのだがな。それだけ厳しかったと言うことだな。 

さて、これで劉備も退場となり、新しい時代へと本格的に移行していく感じじゃな。その後の陸遜に関してはもう少し語らせてくれい。

 

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