三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

陸遜(りくそん) 字:伯言(183~245)その6

さて、今回陸遜の6回目の紹介じゃな。ここでも陸遜の知略を示す逸話になるんじゃが、これには評価が少し分かれてもいるようなんじゃよ。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は夷陵の戦い後の逸話じゃな

と言うと、例えば曹休を破った石亭の戦いですか?

あれも陸遜は関わっているが、夷陵の時のように都督としてではないからな。

そもそも陸遜孫権配下第一の功臣ではあっても、諸葛亮のように全権を孫権から委任されている訳ではないからな。 

実質的なトップはあくまでも孫権で、陸遜はあくまでも他の将軍たちと並ぶ一人の将と言うシステムじゃからな。劉禅が御輿で、実質的なトップが諸葛亮であった蜀とは違う点じゃな。

人物紹介 

襄陽攻防戦

陸遜が襄陽を攻撃しようとしたのは236年の時のことじゃが、この時は孫権合肥を攻めていた時期であり、そちらが主攻であって、陸遜らは助攻に当たる感じじゃな。

とは言え、いつもの時と同じでこの時も合肥攻略はうまくいかず、早々に退却してしまった、といった状況であったんじゃよ。

襄陽の戦い

嘉禾五年(236年)孫権は自ら北方(合肥)へ軍を進めると、陸遜諸葛瑾とには襄陽の攻撃を命じた。

陸遜は特に信任している韓扁を派遣し、上表分を持って孫権の下に行き、戦況報告をさせたが、その帰途、沔中において敵と遭遇し、捜索を受けて韓扁が捕えられた。(『陸遜伝』)

配下の武将が捕まったって・・・大変な状況じゃないですか? 

合肥孫権軍は既に退却していたから、その辺りの情報も相手に漏れたことになるからな。

諸葛瑾も気にしていたようだが、陸遜は既に策を練っていたようだ。

諸葛瑾がやってきて陸遜と会うと、陸遜は言った。

「敵は陛下の鹵簿が帰途についたことを知れば、他を心配する必要もなく、我々の方に力を集中してくることができる。それにすでに要害の地を固めており、(退却も困難であって)、兵士たちの心は動揺するであろう。

ここはひとまず自らが落ち着いて兵士たちを安心させ、巧妙な策略を用意した上で、脱出せねばならないのだ。

今、急いで退却する様子を見せれば、敵は我々がおじけづいたと考え、かさにかかって詰め寄せてくるであろう。そうなれば万が一にも有利な情勢はひらけない。」

そう言うと諸葛瑾とひそかに計略を練り、諸葛瑾には船の指揮を任せ、陸遜自身は、兵と軍馬すべてを上陸させて、それを率いて襄陽城に攻め向かった。

敵方はかねてから陸遜を恐れ憚っていたので、慌てて城内へ引き返した。諸葛瑾はこれを見るとすぐさま船を出航させ、陸遜の方はおもむろに隊伍を整え、大いに威勢を示すと、(諸葛瑾が回航してきた)船へ急いで乗り込んだが、敵はそれをよう妨害しなかった。(『陸遜伝』)

敵の攻め気をうまくそいだ、見事な退却劇ですね。

そのまま退却していては相手の思うつぼだからな。一度攻める振りをして相手を押し込み、攻め気を奪うのは兵法の常套手段だ。

そう言えば張郃さんも夏侯淵死亡後、蜀軍相手に攻撃の姿勢を見せて、蜀軍の勢いを食い止めていましたね。

郭淮の策だがな、彼のように戦況を見極められる人物がいると、こちらも冷静に判断できる。ずいぶん助けられたものだな。

さて、きりの良い所で今回はここまでとしようかのう。次はこの続き、裴松之が批判している事が起こるんじゃよ。それではまたの。

 

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