さて、今日は淳于瓊の紹介を行うぞい。
『曹瞞伝』によると字は仲簡と言うんじゃ。
人物紹介
西園八校尉
彼の出番は188年、霊帝の治世じゃな。霊帝が皇帝直属の部隊である西園軍創設するんじゃ。『霊帝紀』によると、この時に袁紹は中軍校尉、曹操は典軍校尉、淳于瓊は右校尉となっておるんじゃ。つまり淳于瓊は袁紹や曹操と並ぶ人材だったと言う評価だったとも言えるかもしれんのう。
そして後々袁紹に仕えるようになるんじゃ。
袁紹の配下として
『献帝伝』では沮授が献帝を鄴に迎えるよう進言した時に淳于瓊と郭図が漢王朝は衰退しており、復興させるのは困難、しかも一つ一つ行動の度に上聞し、許可を取らないといけなくなり、良策ではない、と反対するんじゃ。郭図は本伝では逆に天子を迎えるように進言しているので、反対したのは淳于瓊と別の誰か、じゃろうな。
また郭図が沮授一人に軍事と政治の権限を集中させるのは、後々災いの元となる、と讒言したので、袁紹は郡県を郭図、沮授、淳于瓊の三人に分けるんじゃ。
これにより淳于瓊は、袁紹配下のトップの一人として権力を握るんじゃ。
官渡の戦い
袁紹は郭図、淳于瓊、顔良を白馬に派遣し、東郡太守の劉延を攻撃させるんじゃが、この時は上手くいかず顔良は斬られるんじゃ。
その後、膠着状態に陥り半年ほどたった後、袁紹は淳于瓊に1万余の兵を率いて、輸送している補給物資の護衛をさせたんじゃ。許攸の情報を元に、曹操は曹洪に拠点の守備を任せ、5千の歩兵騎兵を率いてこれに攻撃を加えようとするんじゃ。夜明けぐらいに曹操が烏巣に到着したんじゃが、淳于瓊は曹操率いる兵が少ないと見ると、営門の外に出て陣取ったんじゃ。曹操はこれを攻撃し、押し込んだんじゃが、淳于瓊は退いて陣営を守備したんじゃよ。
曹操はこの時結構苦戦しておったらしく、袁紹が送り込んできた騎兵が迫ってきてる時も、騎兵に対して兵を割いた方が良い、と言う部下に怒って「背後に来てから教えろ!」と言って淳于瓊を必死に攻撃したんじゃ。こうして淳于瓊は敗れ、楽進に斬られたんじゃよ。
『曹瞞伝』と言う書物にはこの時士卒千余人を殺害し、淳于瓊ら生き残った兵卒全員の鼻を削いだ、とあるんじゃが、さすがにこれはのう、曹操を悪く言わんがために無理やりすぎな気がするのう。後ろから袁紹軍の騎兵も迫って、必死に戦っているような状況の時に、のんびり敵兵士の鼻を削いでおくような時間的余裕があるじゃろうか、いやあ、さすがにないじゃろうな。
さて、これにより淳于瓊は斬られ、その生涯を閉じたんじゃ。さてそれでは能力評価をするかのう。今回は鄭問之三國志以外に出ているぞい。
能力評価
淳于瓊じゃが校尉として取り立てられていることから軍事、統率が高めじゃな。そして都督の一人となり、曹操の攻撃にもある程度持ちこたえたことにより、統率の方がやや高めの評価じゃな。
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雑談ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は淳于瓊じゃな。
うむ、じゃからこそ袁紹の下であれだけの権勢を掴めたんじゃろうな。『曹瞞伝』によると曹操も捕らえた淳于瓊を登用しようかと考えていたんじゃ。
そう言えば『曹瞞伝』と言うのは随分物騒なタイトルですね。瞞ってあまり良い意味じゃないですよね?
うむ、欺瞞と言う言葉もある通り、「瞞」には騙す、欺くと言う意味があるんじゃな。これは曹操の敵対国であった呉国の人物が作ったものなので、真偽不明で程度の良くないゴシップネタが多いんじゃ。
じゃがの、三国志演義はここからエピソードを抽出して、うまい具合に曹操の悪人像を形成しておるんじゃ。
吉川三国志読んでいますが、確かに悪人っぽいイメージはありますが、曹操はそれでも結構すごい人物には見えますよ。
うむ、吉川英治は曹操の本質を見抜いておったようで、曹操のことは悪の面もあるかもしれんが、非常に魅力のある英雄、と言う感じでファンになっておるんじゃよ。
だから思ったよりも曹操の扱いが良いんですね。
そうじゃな、闇落ちせずに我が道を行くアナキン・スカイウォーカー(ダースベイダー)みたいなもんかのう、ほっほっほ。
師匠、そのたとえは全然分かりません・・・。
うむ、まあカッコいいダークヒーローみたいなもんじゃと言いたかっただけじゃよ。
と脱線し過ぎたのう。まあ淳于瓊は曹操、袁紹とも顔見知り、そして校尉に選ばれ、都督の一人にもなるぐらいの実力はあったんじゃ。
ただ実績が少ないのであまり高い評価にはできなかった、と言うことですね。
そうじゃな、ゲームの方も概ねそれに準拠した評価になるんじゃろうな。
さて、今日はここまでじゃな。次もまたよろしく頼むぞい。
次回もまた見てくださいね、それではまた!