こちらは袁紹勢力(まとめ)・その1です。その2を見たい方はこちら
勢力概要
さて、今日は袁紹勢力をまとめていくぞい。
袁紹に関しては、いくつかの段階に分かれておるんじゃよ。
第一段階が何進の下で飛躍しようとしている時じゃな。まだ確固たる基盤がある訳じゃない時じゃな。
191年、勃海太守時
第二段階は勃海太守になった時じゃな。この時点の勢力は以下のような感じじゃ。そして191年、今紹介している時点での袁紹陣営の勢力範囲でもあるんじゃな。
勢力としては冀州の一郡のみじゃが、ここを拠点として郡兵を率いて反董卓連合軍の盟主となっておるからのう、重要な拠点じゃ。
192年、冀州牧時(界橋の戦い前)
そして反董卓連合軍が解散した後、韓馥から冀州の牧となっておるが、その前に勃海を失っておるんじゃな、以前もちと書いたが界橋前では以下の通りじゃな。
水色部分が公孫瓚の勢力範囲で、黄色の部分が袁紹勢力じゃな。冀州牧とは言え、袁紹は冀州の西側に押し込まれており、幽州の一部と冀州の東から青州一帯までを抑えられており、この時点で勢力的にはやや苦しい状態じゃ。
じゃが冀州牧となったことで、ようやっと第三段階へ移行できた感じじゃな。そしてここから公孫瓚を滅ぼすのに足掛け7年、何だかんだで強敵だったと言うことじゃな。
199年、河北の覇者時
そして公孫瓚を滅ぼしていよいよ最強モードへ移行じゃな。何かどこかのフ〇ーザみたいじゃのう。この時期の勢力範囲は以下の通りじゃ。
最終的に袁紹の勢力はここまで広がったんじゃ、曹操と比べると直接的な支配地域が広いんじゃな。間接的には曹操も司隷、徐州まで支配地域を広げておるが、その比較で言うと袁紹も後背の烏丸等を取り入れておると言える。後ろをあまり気にせず、しかも彼らの騎兵の力を借りつつ、曹操に全力を投じることができるんじゃよ。
一方の曹操は袁紹を含めて四方に敵が控えておるんじゃが、徐州は臧覇、司隷は鍾繇が上手く統治することで何とか対抗しておった、と言う図式じゃな。曹操にとっては心強い同士じゃったろうな。
袁紹にしても曹操の急成長は、いきなりスーパーサ〇ヤ人が目の前に現れたフリー〇の心境だったんじゃなかろうか。
しかし袁紹の強みは人材やろうな。たった一郡を保持しておるだけの状態じゃがその割に袁紹配下の人材は質・量ともに豊富じゃ。しかも近くには劉備や韓馥等、優秀な人材を確保している群雄がおるんじゃ。
まごまごしておると曹操も人材を確保して膨れ上がってくるので、早めに彼等から人材を引き抜いていくことが必要じゃろうな。袁紹の場合、外交・軍事どちらでも十分できるじゃろう。
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説明ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、袁紹勢力のまとめじゃな。まずは勢力の変遷を載せてみたぞい。
結構北方を制圧するのに時間がかかっているんですね。
そうじゃなあ、やはり中華の世界は広いからの、相手を攻めるのに移動するだけでも時間がかかるからのう。
例えば冀州は今でいう河北省に当たるんじゃが、東西距離は大体500㎞程度あるんじゃ。これは日本で言うと東京ー大阪ぐらいの距離じゃな。南北に至ってはそれ以上の距離がある。
うーん、移動だけで普通に月単位の期間がかかりそうですね。
そうじゃな、夏侯淵は行軍速度の速さが有名で「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里六日で千里」とある。
1里は0.42kmじゃから、夏侯淵なら一週間程度で冀州の東西を駆け抜けることができるかもしれんが、これはあくまでも騎兵のみの編成でぶっ飛ばした場合じゃろうな。
一日平均で計算すると70㎞程度ですから、さすがに人の足で何日も、と言うのは無茶そうですね。
そうじゃな、日本で言うと秀吉の中国大返しが有名じゃが、一番急いでおった備中高松城から姫路城までの100㎞弱を二日程度で駆け抜けておるが、それでも一日50㎞に届くかどうかなんじゃ。
かなり無茶な行軍で有名な中国大返しよりも更に早く、更に長距離を駆け抜けているっていうのも、何気に夏侯淵ヤバいですね。
後に司馬懿が洛陽から遼東の公孫氏を征伐するのに、片道100日と計算しておったが、これでも結構移動は早いのではなかろうか。
そう言えば冀州や青州で公孫瓚が支配していたエリアを攻め落としながら、ですからどうあっても時間がかかってしまいますね。
そうじゃな。并州と青州を攻め、冀州を取り戻しながら、幽州にも攻め込む、と言う感じじゃからな。じゃが考えてみれば青州と并州を攻める余裕があった、と言うことじゃから、やはり冀州は大州と呼ぶにふさわしい地域だったんじゃろうな。
そう考えると冀州を根拠地として河北を制圧しようとした袁紹の戦略は間違っていなかった感じですかねぇ。
うむ、そうじゃな。さて、勢力の変遷についてはこれで終わるとするかのう。次は人材編じゃな。
次で終わると良いですね。それではまたです。
1⃣・2⃣